今から半世紀以上も前の1954年の夏休みだったと思うが、一人で香川県豊島の浜をめぐっていた。卒論の資料集めで、師楽式土器(製塩用の土器)出土遺跡を探していたのである。豊島といえば、先年らい海岸への産業廃棄物投棄問題で、世上に名を馳せた島だが、本来は瀬戸内の真ん中で美しい浜の続く島である。
島をめぐって南端の岬近くの浜に来た時、たまたま出会った地元の人に,「古い焼き物のかけらの様な物が沢山落ちているところはないですか?」と尋ねた。「焼き物じゃあねえが、あの岬の上にはダブの殻がいっぱいで、この辺りじゃあそこのことを、ダブカスと呼んどる」とのこと。そこは高さ10m有る無し、一度海岸で途切れて島状に海中に飛び出した小さい岬、道はなく潅木と花崗岩の岩肌だが、登るには危険と言うほどではなさそう。
地元でダブという貝は、瀬戸内海岸の岩場に幾らでもいる、径が1ー2cm程度の小さい巻貝で、当時子供などは茹でてもらい、楊枝でくるくると身を出してお八つにしていた。食べた覚えも有る。・・・なぜそんな貝の殻ばかりが、あのような岬の上に有るのか?・・・無駄な寄り道かと思いながらも、かなり苦労して頂部へ登った。
目の前の潅木の間に広がった、6-7m四方も無いような平地一面に、本当に白い貝殻がびっしり散っていた。 しかし・・「ダブじゃない、シジミの殻だ!」 「縄文早期の貝塚じゃないか」 私にとってはシジミで納得だった。これがダブカス遺跡発見の「その時」だった。
瀬戸内海では縄文早期には、まだ十分に海水が浸入してなく随所に汽水状況があり、現在周辺は海ばかりでもシジミの貝塚があることは、学生だった者の知識でもすぐに理解できたのである。目的の遺跡ではなかったが、この時の成果の一つ。目的の師楽遺跡は、あの産業廃棄物で埋まった浜こそ、大規模遺跡だったのだ。
手元にダブカス貝塚のシジミがないため、同様な島での遺跡で、考古館で調査し展示している豊島のすぐ西の島、井島大浦台地のシジミを写真にした。
ところで先般、まだ20代でこの時代を研究をしている人が、井島大浦の資料を見に来館。このとき周辺の同様な遺跡が話題となったが、雑談ついでに先ほどのダブカス発見のいきさつを話した。 「・・・は~、発見者は先生だったのですか~、そうだったのですか・・誰に聞いても、香川県で聞いても、ダブカス遺跡発見のいきさつは分からなかったのに・・」 彼にしては「学史」の中からモノノケでも出てしゃべったような思いだったのかもしれない。 半世紀ということは、そのようにまで遠い昔のことだったのか。