タイトルの判じ文は、破片だが復原すると左図のような、径が30cmばかりの鉢の口縁部上に、へら先で彫りこまれた文字である。
実態は写真左端の拓本などで示しているが、文字はタイトルのように思われ、「円い擂るのに宜しい鉢」の意味に取ったのだが、どうだろう?・・・・・大きさといい、内面の線描きといい、まさに擂鉢の原形ではないか。
現代までも無釉陶のままで残った備前焼は、焼き締め陶特有の堅さと肌合いの古拙さが相まって、今では、主に茶器・花器・酒器などとして珍重される。しかしかっては日常雑器、中でも大甕・壷・擂鉢が主要製品で、特に擂鉢などは、「備前擂鉢叩いても割れぬ」といわれたようなブランド商品でもあった。
備前擂鉢を有名にしたのは、本体の堅さだけではない。実は内面に擂り目を、一番に付けたのは備前焼だった。遺跡から出る同じ頃の他の焼き物では、鉢の内面がつるつるに擂れているものがかなり多い。鉢で何かを擂っているのだ。しかし擂り目はない。備前焼の鉢には、粗いながら擂り目がある。
擂り目は誰の発明か、本当にゴマでも擂ったことのある者には、擂り用の鉢にいかに擂り目が合理的なものかよく分かるだろう。遺跡から出る備前の擂鉢は、粗い凹凸の擂り目が磨り減って消えるようになるまで使われている。堅くて割れない、よく擂れる、製品開発のノウーハウは現代と同じである。何の宣伝をしなくとも備前擂鉢は、室町期には西日本全域に流通している。戦国期になれば、備前焼とそっくりの製品を作る窯場も登場、江戸時代になれば、堺や、明石などでは、さしずめ特許争いになりそうな備前擂鉢と区別つかぬような擂鉢生産が行われている。・・考古学者をなやます代物だ。
いまも「ゴマをする」と言う言葉が生きているように、古くから馳走作りのゴマすりは大変で、しかも常に必要だったため、よい擂鉢を多く必要としたことを物語るのが、各地での擂鉢生産隆盛である。しかし今の人たちは、外で「ゴマをする」ことは習っても、本物の擂鉢がどれだけ家庭にあるだろうか。
冒頭に見た鉢は、鎌倉初期ごろ、最初の備前新商品擂鉢の宣伝用品だったのだろうか。本当は何だったのか。・・・・以前、備前古窯址を踏査していた頃、地元で採集されていたものを拝見した資料だった。
倉敷考古館日記だより
昭和43 (1968)年4月6日 土 晴
伊部下り松の奥を歩く。昨日医王山周辺から出火。大山火事。今日も終日火と煙が見える。・・・(当時数年掛けて備前窯址分布の再検討をしていた。そのある日の情景である。この時の山火事では80町歩燃えたとある。)