岡山市街地を流れる旭川の東に、里山とも言うべき操山山塊が連なっている。その一つの頂部(標高115m)は金蔵山と呼ばれていた。この山が「金の蔵」などというたいそうな名前で何時から呼ばれてきたのか、今ではすでに分からない。
この山頂に岡山県下では四番目の規模を持つ、全長165mの前方後円墳があり、山の名前から金蔵山古墳と呼ばれている。倉敷考古館の主な調査と展示で触れているように、この古墳を考古館で調査したのは1953年、すでに半世紀以上も前のことであるが、この古墳からの出土品は、今も考古館の中心的な展示品の一つであり、毎年各地の大学生が、卒論や修論のために勉強に来る材料にもなっている。
金蔵山古墳の名前は、1930年発行、永山卯三郎著の『岡山県通史』に記されているが、ここでは大正8(1919)年以後の調査の中で書かれており、それ以前の調査中には上げられてない。
しかし明治17(1884)年、当時この古墳の所在地であった上道郡の郡長が、ここを発掘して鏡5-6面、勾玉・管玉など多数が出土したと伝えられている。だがこの時の出土品は、今では全く分からないが、これが契機で多くの宝が出土するところということで、金蔵山と呼ばれたのかも知れない、全くの推測だが。
ところで日本のあちこちには、金鶏伝説というものがある。場所によって、土中に金の鶏がいて鳴き声がするとか、長者が財宝を埋めたところで鳴き声がするとか,有徳人が来ると金鶏が現れるとか、元旦に吉凶を告げる金鶏が土中から三声鳴くとか、様々だが、主には金やら財宝に関わるものとして語られるようだ。なぜ鶏なのだろうか。
写真に示した鶏は、金蔵山の土中から出たものだが、これは土製の鶏で残念ながら金の鶏ではない。皆さんご承知の埴輪鶏である。金蔵山の名前から、金鶏伝説に結び付けたいところだが、金蔵山古墳築造の4世紀末5世紀初頭頃に、わが国でどれほど金が知られていたものやら。この頃の豪族達の力と富は鉄の多さで競われているようだ。鉄は優れた生産用具となり、武器ともなる。まさに「くろがね」である。金蔵山古墳も盗掘は受けていたが、金が出た話は聞かないし、各種多数の鉄器類が発見されたことで、有名なのである。
一方の鶏の方だが、古墳の上に、生き物を象る埴輪としては、最も早く現れるのが鶏である。これが財宝を象徴したものとは思えない。当時の人々にとっては、例えば『万葉集』巻13(3310)に「・・・家鳥 可鶏毛鳴 左夜者明・・」(・・・家の鳥 かけも鳴く さ夜は明け・・・)と歌われているように、鶏は家の鳥で鳴くと夜が明ける、人々に夜明けを告げる鳥として飼われていたものであろう。古い時期の埴輪鶏は、ときの声をあげる雄鶏である。
金蔵山の鶏も、死者再生の朝を願ったのか、死者に別世界での新しい夜明けを告げたのか、あるいは死者に代わる新しい後継者の世の夜明けを告げたのか、私達にはよく分からないが、新しい日、新しい世の始まりを、告げて欲しい願いがこめられていたのだろう。
金蔵山の埴輪鶏、1500年の歳月の後には、残念ながら頭と一方の羽が残るだけの哀れな姿といえる。だが現代の鶏は、全く人間の思いのままに作り変えられ、家の庭で、高々と夜明けを告げる雄鶏など目にすることも無く、もっと哀れな存在かもしれない。
せめて元旦にでも金鶏が、人間世界への警告を「ときの声」で告げて欲しいものだ。
倉敷考古館日記だより
1月1日
この日は考古館開館以来休日なので、日記もお休み。ただ博物館もサービス業、正月などは開館すべきの要望はおおい。しかし見学者の実態はどうであろう。初詣と同様に博物館見学がされるような社会なら、何も言わなくても正月は開館日になっていただろう。