小学生などに、埴輪の楯形や葢(身分の高い人を覆う傘)形や円筒などを、「埴輪だ」というと妙な顔をする。多くの子供たちは、埴輪というと馬形や人物と思っているようだ。絵本やテレビなどの影響だろう。ところがその人物や馬などの埴輪が古墳を飾るのは、古墳の始まりからでなく、古墳時代もしばらく経った中ごろから、ということは大人でも知らぬ人が多いようだ。
写真の鳥形品は、大きいものでも長さ7ー8cm程度、たいへん小さく可愛らしいものである。これを「埴輪の水鳥」というと「そんな小さい埴輪があるのか」といわれそうである。確かにこの水鳥形品が出土した周辺に立てられていた埴輪は、円筒埴輪でも高さは50cmより高く、楯形品などは150cmをこすものである。
この小さい水鳥達には、すべて体の下に剥げ落ちた痕跡がある。高さのある円筒埴輪の上端に幾羽かが一緒に取り付けられていたようである。四足動物以外の形象埴輪は、円筒形の台状埴輪の上に取り付けられているのが原則である。人物埴輪も必ず台の上に載っている。
円筒埴輪は、もともと供え物を載せる台形品がルーツなのである。小さい鳥たちも円筒埴輪の上に取り付けられて、供え物として一人前の埴輪となったようだ。埴輪は本物の代用品として、古墳を守り飾るものを焼き物で作って並べたようなものである。人形埴輪が最初から現れてないことは、人を供え物にしてないということだろう。つまり、人物埴輪は殉死の代わりではないということである。
一方で、水鳥の多くは渡り鳥、空を駆けて死者の魂を運ぶとも考えられているが、渡り鳥のようにまた帰って来て欲しいとの意味かも知れない。いずれにしても空を飛ぶ鳥が、人々にはこの世から去った死者と重なるものであって、死者への愛惜の心が、死者の周辺に鳥たちを必要としたのだろう。『古事記』・『日本書紀』の神代記述中にも、喪屋に奉仕する雁・鷺・翡翠・・・・などのことがが記されている。
人物埴輪の出現は、古墳時代の中ごろに、また新しい葬送の儀式が加わってきてからのことと思うが、渡り鳥である水鳥は、彼我の世界を意識したときに、人々が、死者の魂や、自分達の心を託すものになって古墳に飾られていたのであろう。
倉敷考古館日記だより
1972(昭和47)年6月16日 金 晴一時曇
「けさアヒルが帽子・蝶ネクタイ・靴をはいて中橋を歩くのをCMのフイルムに収めていた。ちょっとかわいくて、かわいそう。多数の見物人でにぎわう。・・・今日も庄(王墓山)の調査が続く。」
(アヒルも水鳥、遠い祖先は渡り鳥のはず、埴輪の水鳥も、蝶ネクタイのアヒルも人間への奉仕のスタイル。1500年の歳月の差、人間中心の世界は同じよう。)