赤い顔と白い顔の存在を、偶然ではないと意識したのは、かなり古い。1963 (昭和38 )年9月、現在は総社市に合併されている当時は昭和町原の、山丘尾根上にある若水山古墳群の一基を調査した時のことである。この調査は地元からの要請であったが、尾根上にほとんど封土のない状況で、箱形の石棺蓋が露呈しかけた古墳の調査だった。
箱式石棺と呼ばれているこの種の棺は、自然の板石幾枚かを長方形に立て並べて箱形にした、簡単なものだが、水はけの良い山の尾根に造られる場合が多く、しばしば中に人骨が良く残る。そこで古墳と知らず、開墾や工事中に邪魔な板石を動かすと、突如として髑髏マークの本物にお目にかかる事となる。しかもそれが真っ赤に染まっている場合が多く、何も知らず板石を動かした人が、赤い顔と対面し少々気がおかしくなったという話も聞いた。
調査した若水山5号墳では、中から2人も現れた。しかも一方は赤い顔、片方は何色も付かない、いわば白い顔だった。箱式石棺の大きさは、普通の成人一人入るだけの大きさが原則なのである。ところがこの種の棺では、中に二人以上収められた例が三分の一近くを占めている。
若水山5号の棺も成人一人分の大きさだったが、二人の成人埋葬で、互いの頭は逆位置にあり、一方が先に埋葬されていた。その証拠は、一方の遺体は骨化しかけた状況で、体部のみを横に片付け、その上に後の遺体が頭を逆位置にして埋葬されていたのが、確認できたのである。先の人物は女性、後葬者は男性だった。
しかも先葬者だけに、べったりと朱が、顔を中心に周辺に付着し、石棺の内側にも塗られていた。朱といっても、酸化鉄もあり、水銀朱もあるので、普通には赤色顔料と呼んでいる。ただあまり時期を隔てずに二人が埋葬されているにもかかわらず、一方の顔は塗ったような赤さだが、他方は朱色に染まった先葬者に近い部分の骨にも赤色の染まりはなかった。
冒頭の写真は、広島県府中市の山ノ上古墳出土人骨の状況である。府中市教育委員会から提供頂いたものである。若水山の事例は古いため、赤・白が明白に見える写真が無いので、同様な状況の山ノ上古墳での写真を代わりに使用させていただいたのである。こちらは二人が頭を並べていたので、赤と白(不着)がより分かりよい。また先葬者が赤く塗られた状況は、若水山と同じだが、ここではそちらが男性、後葬者は女性。赤い顔になるのは性別には関わり無く、先に埋葬された人物だったといえる。
二人はどのような関係だったのか、赤・白が明瞭な場合は数少ないが、いずれにしても同年輩に近い二人が、あまり長い時間を隔てずに埋葬されている場合が多いのである。先の埋葬者とは身近な人物に違いない後の埋葬者は、先の人物の変わり果てた姿と共に埋められることとなる。
なぜ先の埋葬者にだけ赤色顔料が塗られたのか?大体二人は同年輩と見てよいが、どんな関係なのか?血縁者?夫婦?当人がそこにいるのだが、完全黙秘である。後は皆さんのご想像ということになるのか・・・・
倉敷考古館日記だより
1963(昭和38)年9月13日 (金) 曇時々雨
・・・・若水へ調査に行く。3名。シストの中は全く手がついていなかった。2体の人骨は、きゃしゃな方が先で、ひすいの小勾玉1と、ガラスの小玉7をもっており、こちらの頭蓋にはべっとりと朱が付いていた。ごつい骨のほうが、明らかに後埋葬で、これには赤色は全然付かず、棺内は蓋の裏まで赤色・・・・・(当時の状況が続けて書かれている。)・・・夜地元の大月氏ら、弥生後期の土器を持って宿にくる。