前回・前々回と続いた、金蔵山古墳での副葬品入れ小石室と、無縁でない事件(?)。
金蔵山古墳は、岡山市街地を南流する旭川の東岸、操山という里山的な丘陵上にあるが、この古墳から見ると北西方向、旭川の対岸にあたる沖積平野内で、直線距離では4kmばかりの所には、国指定史跡の神宮寺山古墳、全長約150mの前方後円墳がある。。
金蔵山古墳が全長165mからの規模のため、つい大きいと言う気がしないかもしれないが、近畿地方を除いて、こうした150mクラスの古墳が、あちこちに存在するという事自体、古墳時代に、近畿地方に劣らぬ勢力を持っていたと思われる、吉備地方の特性ともいえるだろう。
神宮寺山古墳の築かれた所は、縄文時代では旭川の河口近くであり、弥生時代に岡山の沖積平野を広げていく、核のような位置である。この沖積地中の大前方後円墳は、今では市街地の只中で、前方部は墓地、後円部は式内社天計神社の境内となっていたことで、辛うじて保存されて来たともいえる。市街地の沖積平野内で、これだけの規模の古墳が保存されてきた事が、国指定史跡の重要な要素でもあった。
古墳の周辺には、かつては蓮田などもあったといわれ、周溝存在の可能性もあるが、南側は古くに小学校建築で、裾部分を削られており、周辺も人家で埋まり、なかなか本来の古墳の詳細はわかっていなかったのである。
ところで、すでに45年以上も前の事になるが、この古墳で思いもかけぬことが起こった。
この古墳の墳頂部には、かなりな規模の神社社殿があり、埋葬主体はこの下にあるだろうと思われている。神社が建設された際に、埋葬構造が破壊されていても不思議は無い。社殿の周辺には基壇の石積が廻っている。
その神社基壇の石積部分と思われるような石で、多少横に張り出していたものを、わざわざ動かした者がいた。・・・下から現れたのが、あの金蔵山と同じような小石室、同じような錆びた鉄器の山だった。ただ埴製の盒はなかったのだが・・・
まさか社殿基壇石と一体化して石室蓋があったとは。金蔵山の盗掘では小石室を見落としていたが、神宮寺山では盗掘者は小石室だけ見つけたことになったのである。
金蔵山の盒の時のように、鏡や玉のようなものが期待されたのか、鉄器などのことは全くよく分からずに、中を引っ掻き回したのか、それこそよくは分からないが、ともかく私どもが駆けつけた時は、錆びた鉄器のバラバラ事件だった。
応急措置の石室図作成や、鉄片の採集整理の後に、小石室は蓋石でもとどおりに塞ぎ、神社基壇の下に収まったのである。内部から出土した鉄器類は金蔵山のものと、共通するものも多かったが、どのように収められていたかは知る由も無い。中は完全にかきまわされていた。やっと1500年もの間保存されていたものが、発見と同時に、如何に多くのデーターが霧散したことか。玉手箱の現代版・・・・・
ただ拾い集めた鉄片だけではあったが、金蔵山古墳の鉄器と相まって、当時の生産用具の実態を具体的に示す、重要な資料となった。断片の物も多いが、農具である稲穂摘みの手鎌は、50個体を越す数があり、普通の草刈鎌も30点近く、鉈鎌も12点は数えられた。鍬先も22点以上はあるだろう。工具も、斧、手斧、錐、鋸、やりがんな、のみ等だがこれらの数は、あまり多くなかった。
ここで注目されるのは、小石室が金蔵山のものより、やや長かったためか、それとも剣や刀を納めるために、大きく作ったものかは分からないが、この小石室内には、かなりな数の刀剣が納められていたようだ。断片が多かった。
いま一つ金蔵山と異なっていたのは、鎌に木柄が付いたまま副葬されていたことである。そのため木柄は鉄との接触部分で、木質が鉄錆と置換して残り、柄の着装方がよく分かったのである。
鉄鎌は木柄の中に挟みこむ形で、直角(草刈鎌)や鈍角(鉈鎌)に取り付けられているが、両者ともぐらつかないために、柄と鎌の間に、小さい木の楔までが打ち込まれていた。実際に鎌を使用していた人の、日常が伝わる品であった。
金蔵山古墳と神宮寺山古墳の関係が、どのようなものだったのか、ここでは推測にまかせたい。ただ鎌の使い便利を工夫しながら生きた人々が、幾十代か前の、自分たちの姿ではないのかと思う人はどれ程いるだろうか。
倉敷考古館日記だより
1961(昭和36)年6月23日 金 晴
県教委から連絡、神宮寺が盗掘されている由、すぐ現地へ行く。北側ののぞいていた天井石らしいものを剥がして、中に入っていた。石室は、幅約50cm、長約150cm、中央はややせり出して幅約30cmになっていた。天井石は3枚。金蔵山古墳と同じような竪穴石室の副室らしく、ひどい攪乱の跡に鉄片の山。鉄製品以外は無かったらしい。残存鉄片だけでも4貫目(約15kg)以上あるのでは・・・
同年7月4日 火 曇後雨
神宮寺の盗掘者が判明した由。中学生6人、小学生1人とか・・・
(どうも遺跡の発掘などに興味を持った生徒たちの仕業だったようだ。人目にもつき易く、常識では思いもよらない所を掘るなど、確かに子供の発想だ。半世紀近くたった今、彼らは何を考え、何をしているのか。このとんでもないいたずら行為、全く記憶に無いのでは?)