(48) ベンケイ(弁慶)貝輪の女性 - よもやまばなし

(48) ベンケイ(弁慶)貝輪の女性
2009/1/15

 考古館展示品の代表選手の一つでもある、倉敷市里木貝塚の縄文時代遺物には、さまざまな種類がある。その中の一つに、一体の人骨が両腕にはめていた貝製の腕飾りがあり、右手はベンケイガイ、左手はイタボガキ製の腕輪であった(左写真の上段)。

上段 里木貝塚人骨がはめていた貝輪(左・イタボガキ 右・ベンケイガイ製) 下段 参考品(左・ベンケイガイ 右・同貝の模作貝輪)

 こうした腕飾りは貝輪と呼ばれているが、里木貝塚で発見された貝輪やその断片は、30個体分ばかり、未完成品も20個体以上はあったが、そのほとんどがサルボウガイ(猿頬貝)製である。これらの中に、人骨が身に付けていたもの以外では、ベンケイガイと思われるもの2点とイタボガキらしいものは1点だけであった。

 現在ベンケイガイは、日本列島でも外洋で、水深は10~20mのあたりに生息しているという。サルボウガイはモガイ(藻貝)とも呼ばれ、当地方では、ばら寿司の具などとして、今もよく食べる。東京湾・瀬戸内海・中海・有明海のような内湾で、潮干狩りが出来るようなあたりに生息する。

 ちなみに里木貝塚をはじめ、このあたりの縄文貝塚に限らず、中世の大形貝塚を形成しているほとんどの貝は、外見は一見モガイに似ているが、ハイガイ(灰貝)である。サルボウガイは貝殻の外にある放射状の凹凸線(放射肋)が30~34本あるが、ハイガイは17~18本である。ハイガイはたいへん美味だったとのことで、近年でほとんど食べつくされたようだ。

 ただ当地方では貝輪にする大形の貝としては、サルボウガイやアカガイ(放射肋42~43本)が適していたようで、貝の種類がえらばれている。里木貝塚の大量のハイガイ殻に混じって、加工痕が明瞭でなくとも、サルボウガイの殻があると、それは大形であって、貝輪の材料だったとみてよい。ベンケイガイも大形で、弁慶という名前は貝殻が強いことに関係しているともいうが、貝輪に適していたといえる。

 写真下段の左が、ベンケイガイの殻で、右は同貝殻による模作品である。中部瀬戸内と同様に、東海地方で縄文貝塚が集中している渥美半島にある、田原市吉胡貝塚資料館の学芸員の方が、半島の太平洋側海岸で貝殻となって打ち上げられている貝殻と、それらから自分達で作った貝輪の模作品を、送付頂いたものである。渥美半島周辺では、ベンケイガイやイタボガキ製貝輪が主流と言えるくらい多い。

 里木貝塚の貝輪は何処から来たのだろうか。遺跡のある地域では産出しないような物が、たまたま遺跡内から発見されると「おそらく交易で,もたらされたのだろう。」と簡単に報告される場合が多い。本当の入手経路など, なかなか分からないからである。

 縄文時代では、貝輪は基本的に女性がはめている。しかし着装者は、里木貝塚では、男女ともで20体余りのなか、1体だけだった。以前話題とした、津雲貝塚では、60体ばかりの中で9体が貝輪をはめていた。その人物たちで、明らかなものは、やはり女性ばかりである。しかし女性の全体ではないから、貝輪使用の女性は特別な身分の者、とも思われもするが、破損したり、未完成の貝輪の多さを見ると、かなりの女性が使用したようだ。むしろ好みによるのかとも思う。

 里木貝塚の腕輪着装人は、保存状況がよくなかったので、性別は不明だが、熟年と推定された。貝輪をはめている以上、まず女性だったと見てよいだろう。ただこの貝塚からは、サルボウガイ製貝輪が多数発見されているのに、なぜ彼女は、当地では2個とも大変珍しい、ベンケイガイとイタボガキの腕輪を身につけていたのか。当時から、ブランド製品好みもいたのか・・・・・

 ところでこの人物は、遺跡の状況から、縄文時代後期(中津式)以後の女性と推定した。遺跡の調査範囲内では中期が主体だったのだが、前期はもちろん、後期も、晩期の土器も出土していたので、この貝塚の一帯は、幾千年かの縄文時代の中で、幾度かにわたって人々が繰り返し住まったところといえる。

 当時の煮炊き道具である土器は、女性が作っていたらしい。民俗例から推定されている。

 縄文時代中期から後期に移った頃、当地方では、今までとは違った、〈すり消し縄文〉で土器を飾りだす。この模様は広く各地にゆきわたっている。ということはこの頃は女性もともに、かなり広範に人々が移動しだしたということでもあろう。

 ベンケイガイの腕飾りも、ただ交易で順次に遠くからもたらされたのか、それとも腕輪をはめた女性が、はるばるやって来たのか、しかもそれが縄文時代の、後期であるのか晩期であるのかさえ、私たちには正確に回答できる資料が無い。彼女の生まれは何処だろう、貝輪は何処で手に入れたのだろうか・・・・・・・貝も女性も黙して語らず。

Go to Top