知っている方も多いと思うが、「戈」というのは武器の一つで、この文字からたすきを除いた形から連想される形態である。長い柄に直行するように、短剣を取り付けたような形で、現在の鳶口に似る。
弥生時代の青銅製武器形品としては、銅剣・銅矛・銅戈が並んでとりあげられる。弥生時代の青銅製武器は、本来は海外からもたらされた武器であるが、わが国で製作するようになると、たちまちに祭りの道具に変化したことも、常識だろう。
ここで問題にしている銅戈は、左上に示した写真だが、良く見て頂くと分かるように、先端に近いあたりのごく一部分だけが本物で、他は復原である。ただ全体の形としては、このような物だっただろう。これはまだ武器として十分に機能するものだ。
出土したのは、倉敷市広江の浜という地名を残す地点、まさにかつては吉備の児島の西岸で、その一角の海岸だった地点である。
当遺跡については、このホームページ上の、館で調査した主な遺跡でも取り上げているが、そこでは古墳時代の製塩遺跡が主体で、奈良・平安時代にも及ぶとしている。しかし実は縄文時代後・晩期遺物もかなりな量出土し、弥生時代も僅かとはいえ全期間を示す遺物が出土していたのである。
ただこの遺跡では、縄文・弥生遺跡が共に、後の大規模といえる古墳時代の製塩遺跡と重なり、しかも現在では小学校敷地内であることから、遺跡の破損も著しい。たとえかけらとはいえ、珍しい弥生時代青銅器出土のことに触れなかったのは、この遺物が、かつて校舎が新築された時に撹乱されていた土中にあり、十数年後、校舎を増築するために行われた調査の際、その撹乱土中からの発見品であったためである。
発見時の観察で銅戈の折れ口は、十数年前の工事で破損したとは思えない、他の部分の表面風化度とおなじ状況で、これが古くから断片となっていた可能性は高いものだった。
吉備の児島は、近代の地図上では児島半島と呼ばれ、現在では半島というイメージすら失われる陸続きの地になっているが、少なくとも中世の頃までは、瀬戸内海のほぼ中央の大きな島で、島の南北が、東西に通じる海路であった。
児島は『古事記・日本書紀』の国生み伝説にも、名前を挙げられる島であったし、現実に弥生時代の中期遺跡で、いわゆる高地性集落とされるものだが、島の東西の山頂近くで発見されている。貝塚まで形成しているので、海浜生活と一体的な集落が山頂に形成されていたのである。また岡山県内としては、弥生時代青銅器の、集中して多い地域でもある。
この島の東部地域では、北に面する丘の上から、5本の銅剣が出土したと伝えられる(飽浦の銅剣、1本は東博蔵)。中央部近い山中からも5本の銅剣が出土している(由加の銅剣、1本は当館蔵)。西部の山中からは銅鐸が一個(種松山銅鐸、当館で展示)出土。それにこの広江の銅戈断片である。
弥生時代、この吉備地方の前面に横たわった島の人々は、当時としては、最も珍しい垂涎の的でもある青銅器類を、どのようにして入手したのであろうか。瀬戸内海の中央で、ただ交易で入手出来たのだろうか。対価に何があるのだろうか。東西に行き来する船への食料や水、泊まりの提供だけで入手しえたのだろうか。瀬戸内の複雑な航路での、安全な水先案内などであろうか。
・・・当然そうした事が中心でもあろう。しかし互いがいつも平和的に交易できたのだろうか・・・・なぜ児島の人達は不便な山頂近い山中に、生活の拠点を置いていたのか・・・・或る時、最新の武器と、優秀な船で航行するものに、海浜の村が襲われて、食料や物資が奪われ、仲間が拉致されたり、殺されたのでは・・・・彼らも逆に船を襲う事になるだろう・・・・
広江の銅戈は武器の機能を持っている。海辺で出土したこの断片となった銅戈、弥生時代もまだ前期に近い頃、小さい広江の海浜の村で、いったい何が起こったのか・・・この銅戈が、西からの航行者と村人との戦闘の中で、破損したのでない事を、今から祈っても間に合わないのだが・・・・歴史の繰り返しの無情・・・・つい近日まで連日続いた、イスラエルとパレスチナのニュースに思う・・・・