写真の土器は、考古館の木作りで狭くて暗いケース中に並んでいる。このケースは考古館開館時、つまり1950年、遠くなったと言われる昭和も25年の製作である。考古館より一年前に開館していた倉敷民芸館の、当時の館長外村吉之介氏デザイン指導と聞く。60年も経つと今ではこの古いケースまでが、展示品かもしれない。
ところで写真に示した展示品、考古遺物の一つずつに特に興味の無い方・・・というと大変失礼なことだが、随分考古資料に造形深い人でも、直接の興味対象以外では、かなり多くのケース前を素通りされているが、案外、この土器の前では足を止められている。写真右端の土器が注意を引くようで、妙な白い付着物がこびりつき、胴部は今にも崩れそうな土器なのである。他の遺物よりかなり異質に思われるためだろう。
この土器の説明には・・・倉敷市児島味野の仁伍遺跡出土、弥生時代中期の脚付製塩土器(写真左)をモデルに作成した土器で、製塩実験を行ったもの、ただ一度の実験でこのような状態になった・・・程度のことしか述べてない。
しかしこの土器に注目したような方なら、表面がぼろぼろになり今にも崩れそうになった土器の器壁を見て、この土器と並べて展示している遺跡出土の遺物について「なるほど遺跡出土品の方は、台脚部分ばかりが多いのは、上は壊れてしまっているからだ」と察して下さることを期待しているからである。
実際に遺跡からの出土遺物は、圧倒的に台脚部破片ばかりが多かった。こうした遺跡の状況から、この土器が、製塩用の土器だったことが、逆に推定されたのである。
この説明で土器表面の付着物が塩であることは、納得していただけたと思う。しかしこれだけだと、「ああこれに海の水を入れて焚いて、中いっぱいに塩が出来たのだな、外に塩が噴出すくらい。」と言うことになりかねない。土器による塩焼きも少々手間を掛ければわけないことに、思われそうである。
しかし現実は甘くない・・・塩だから甘くないのは当たり前・・・ということか。大体この土器へかなり濃い塩水を入れて、普通に焚いたのでは、塩水はほとんどが周辺に噴出していって、外に付着した塩となってしまった。この土器はその結果なのである、中に溜るように焚く火加減はむつかしい。周辺でただ木を焚いたのでは噴きこぼれてしまう。
少々噴きこぼれても、海水は無尽蔵ではないか、どんどん足せばよい、と言われそうだが、当時の遺跡立地場所から見ると困ったことがある。この種の弥生時代製塩土器が出る遺跡は、当時でもすぐ目の前が海ではない場合が多いのだ。海に近いことは確かだが、何百メートル、時にはキロ単位になるくらい離れている。海に近いと思ったら、高さがあって、海ははるか下という場所だったりする。遺跡立地がこのような場所だったので、この土器が本当に製塩用の土器だと認知されるのにも、多少手間取ったのである。
しかし製塩土器、しかも発見場所で製塩したと思われる状況である以上、一体海からどうして濃い塩分のあるものを運んだかが問題となる。「藻塩焼く」の言葉が『万葉集』(935番)にあったり、『常陸風土記』の行方郡では塩を焼く藻を産すとある事から、濃い塩水を得るには、よく塩分を含ました藻を焼いて、その灰を利用して濃い塩水を得たのだろうというのが、おおくの推測である。灰を運ぶなら軽い。
この種の土器で製塩をした人達は、手間をかけた貴重な塩水を、噴きこぼすなどとんでもない事だっただろう。じっくり熱をかけ、塩は器の中に溜まるよう上手に火を焚いたことだろう。展示している実験結果の土器は、少々デモンストレーション用のスタイルである。・・・・ただ製塩に使ったこの種土器の体部は、加熱と塩分の浸透で、展示している土器同様にぼろぼろになる点は同じの筈、遺跡の中では、土器を支えた台脚だけが残った。
「・・注意深いあなた・・・おかしいと思いませんか?」・・前々回にも古代の製塩土器を話題にして、そこでは残ったのは口縁部だけだったはず・・・・何かの間違いでは?
・・・・・この矛盾解決は次の機会に