(77) 大伯(大来)皇女誕生の地 - よもやまばなし

(77) 大伯(大来)皇女誕生の地
2010/4/1

 写真(上)の遺物、誰の目にも家形品に見えるだろう。多少とも古代の建築に興味のある人なら、高床の倉庫・正倉でもよいか?・・・・・・一目で、須恵質切妻家形陶棺と思った人は、考古学のプロやマニアでも、岡山県周辺の人か、特別に陶棺に興味を持つ人だけのはず・・・・・他地域では、まずお目にかかれない代物である。

須恵質切妻小形陶棺

須恵質壷と小皿

備前市惣田奥4号墳出土 両者とも火葬骨蔵器

 古墳時代の棺のなかでも、焼き物で作った、多くの台脚付きのこうした棺については、既にこの「よもやまばなし」でも「21」・「51」・「52」と、少々しつこいくらい繰り返し話題にした。というのもこの種の棺は、岡山県に集中していると言うことなのだ。なかでも、今回写真で示した、須恵質切妻屋根形の陶棺は、岡山県の東南部、かつての邑久郡を中心にした地域に、圧倒的に集中しているのである。この種の陶棺の使用は、七世紀代であり、しかも後半のものがかなり多い。先の「21」をクリックして参考にして頂きたい。

 ところでここに写真で示した陶棺は、考古館で調査し、展示もしているが、身の長さは76cm、幅は30cm前後の小形のもので、中には火葬骨が収められていた。七世紀最末期から8世紀初頭のものと言える。中央で火葬が始まったとされる時に等しい時期である。

 小さい横穴石室の奥に収められていたが、写真(下)の壷は高さ15.5cm、小皿で蓋をしていたようだが、これにも火葬骨が納められて石室入り口近くから出土。この古墳は横穴石室墳の形をしていたが、火葬骨のみ収められていたようだ。古墳形態の墓から、次の形態の墓に移る、全く過渡期の墓であった。

 この古墳は岡山県備前市佐山の惣田奥4号墳。古墳所在地の山腹には、十数基の古墳が分布する。この地は現地名が備前市とはいえ、備前焼の窯が集中する地域より、南に一山越した地域で、かつては邑久郡鶴山村だった。

 佐山地区の南、山を越した近い地は、瀬戸内に面した、かつての邑久郡牛窓町である。ここは、古墳時代以来の長い歴史の中で、常に瀬戸内海の良港がある地として知られ、江戸時代などには、朝鮮使節の宿泊する港でもあった。

 この一帯は古代以来近年まで、邑久郡を冠した地名だったが、平成大合併でこの伝統ある郡名は消滅した。佐山辺りが備前市であることを別とすれば、一帯は瀬戸内市となり、その中で僅かに、邑久町の町名が古代以来の「邑久」名を残している。

 ところで、先の陶棺と全く無縁の話のようだが、『日本書紀』の斉明天皇紀に、「・・・御船は大伯海についた。その時、大田皇女が女子を出産した。そこでこの女児を大伯皇女という。・・・」というような記載がある。

 ここに出る「大伯」は、同じ発音の「邑久」のことである。奈良平城京の始まり近い、713年に、国内の地名を好字の2字に改めるようとの命令で、大伯が邑久に変えられた。これは平城京などで発掘された木簡の文字の上でも、この頃からの変化が確認されている。

 『日本書記』での年代では、先の記事は661年にあたり、当然「大伯」時代である。大伯の海、おそらく牛窓辺りで皇女は誕生したのだろう。彼女は、天智天皇の娘である大田皇女を母とし、天智天皇の弟である天武天皇を父として生まれた。

 時は、朝鮮半島の百済や新羅との関係で、対外情勢が逼迫していた時期。まだ中大兄皇子であった天智は、政治の場を前線基地とも言える九州に移すべく、母である斉明天皇ともども、一族を引き連れて、九州へ向かっていた途上の事である。大伯皇女には、二つ違いの同母弟・大津皇子がいる。斉明天皇は、この時九州で崩じたのである。

 後に持統天皇となる?野皇女(大伯・大津姉弟の母・大田と同腹の妹である)も、天武の妃になっていたが、この?野も姉の大田が大津を産んだとほぼ同じ頃、天武の子である草壁皇子を生んでいた。ただ大伯・大津の母・大田は667年死去、姉・弟は6~4才の頃。大田は祖母に当たる斉明と、同じ墓に埋葬された、と『日本書紀』にはある。

 大津が24才になった頃、父の天武が崩じ、皇后であった?野が、続いて位に付いて持統天皇となった時、彼は直ちに反逆者として誅せられた。かれの妻は、激しい悲しみの下、殉死したとある。天武には多くの皇子がいたが、母の身分の高さと年齢から、持統の子である草壁の皇位継承に最も障害となるのは、大津であった筈だ。しかも、持統の姉であって、彼の支えとなる筈の母は、早く死んでいる。

 この事件について、『日本書記』は、大津へ同情的に語っている。彼は優秀で多くの人から敬愛されていたとする。大津と姉の大伯、この二人の歌は『万葉集』にも残されている。斎宮となっていた姉の大伯(『万葉』では「大来」字を当てる)の歌には、弟大津の死を嘆き悲しむものがある。

 『日本書紀』中で、偶然にも大伯海で誕生したように語られた皇女にまつわる話を、長々としたが、実は丁度こうした中央政権で、内外ともにめまぐるしく政治的な抗争が続いていた頃が、ここで話題としている須恵質切妻陶棺が、大伯(邑久)地方に集中して分布している時なのである。

 棺の形は公の倉である正倉に似ている。斉明の御船は偶然に邑久の海に立ち寄ったのではなく、ここには早くから大和王家の屯倉、いわば大和の基地があったのではないか。その基盤となる倉を管理する役人や、そこから大和の王家に出仕した多くの人間もいたのでは・・・こうした人の棺が、あの倉形の棺で象徴されたのではと思われるのである。

 惣田奥4号墳の棺の主は、710年の平城遷都を知っていたかどうか。しかし大津の死や、大伯のことは、同時代人として知っていても不思議は無い。特に大伯は、地元の名を冠した人物である。関心があっただろうと思うのは、ゴシップ好きの現代人だからか・・・

 大伯は斎宮を解かれて後、飛鳥の地にいたのか、飛鳥池遺跡からは「大伯」銘の木簡が発見されている。『続日本紀』によれば、彼女は701年に死去している。40才くらいの筈、どのような生涯を送ったのだろうか?この年、後の聖武天皇や光明皇后が誕生している・・・

 惣田奥4号墳の火葬人骨に聞いても「そのような雲の上のこと、一切存知ません・・」と畏まるかも・・・・何処でも何時の時代も、権勢の周りには暗闘と血なまぐさい匂いが・・・・触らぬ神に祟りなし・・なのか・・・

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