(86) 8月15日 - よもやまばなし

(86) 8月15日
2010/8/15

 8月15日と聞いて、正直なところ皆さんは何を思いますか?

六十周年記念誌表紙

 毎年8月ともなれば、広島・長崎の原爆の日や太平洋戦争のこと、終戦のことは、必ず大きな話題となるので、今年では65年も昔のことながら、この日を、かつての世界大戦の終結の日として思う人は、かなりいるだろう。しかし戦争の実感を持って思い出す人は、随分と少ないのではなかろうか。

 現実には盆休みを思う人や、何の感慨をも持たぬのが現代のように思われる。今では65年も昔のことは、歴史テストのための記憶だった人が、社会の中心になっているためでもあろう。過去のことを知らぬことも、近い時期のことでもたちまち忘れてしまうのも、互いに責められる事ではないくらい、日々はめまぐるしい動きだ。

 わずか二ヶ月前の6月15日前後頃何があったと聞かれても、すぐには思い出せないのではなかろうか。あのサッカーワールドカップで、日本がはじめて外地で1勝して、この試合のテレビ視聴率が45%以上だったと、伝えられていた頃である。

 一方では、7年の歳月を掛けて宇宙の小惑星と地球を往復した探査機「はやぶさ」が、素人には全く信じられないような状況の中で、最後まで地上での計算どおりの地点に、小さいカプセルを無事に返し、夜空で天体ショウのような火花を咲かせて散っていった。その姿は、感動以外の何物でもなかった、その頃である。このカプセルの展示は人気を博しているようだが、すでに時の隔たりはある。

 その後には、参議院選・消費税問題・ねじれ国会・・・・国技だとする大相撲界を揺るがした醜聞が続く中で、白鵬の活躍・・天皇のねぎらい・・・その他もろもろ・・・日々こうしたニュースにさらされておれば、過去の事などには少々不感症にもなるのか・・・

 ところで二ヶ月前といったのは、今年の6月15日の朝日新聞紙上では、ちょうど半世紀前の1960年6月15日に、日米安保条約改定反対の大デモのなかで、樺美智子さんの死亡した事件を、かなり詳しく取り上げ、現在最も重要な政治的な課題の1つ沖縄の基地問題につながることを報じていた。

 60年安保反対運動の大きなうねりの中で、東大生で、当時の皇太子妃と同名の女性の死は、よく記憶する者にとっても、それが6月15日だったことは思い及ばなかった。

 8月15日、終戦の日、正確には敗戦の日というべきだろうが、この日、私事ながら現在の中学一年生だった自分が、例の「玉音放送」として知られる敗戦を伝える詔書の放送が、よく聞こえない中で、戦災で家を失って親戚に身を寄せていた先の従妹と、近くの川に泳ぎに行ったのである。

 終戦の日から見れば、2ヶ月にも足りない前の、6月29日未明の岡山市空襲で、全くの無一物となり、今は倉敷市内になった親戚の家に身を寄せたが、それでも満員の列車に、窓から乗ったり、幌も無い連結器の上にさばったりしながら、岡山の焼けた学校に通っては、焼け跡の片付けをしていた。

 岡山駅から市内の一面焼け跡の道中では、なお異臭がするところが幾箇所かあり、数日後には、そのあたりで焼け残ったトタンを集め、そこで遺体が、焼け残った木で荼毘にふされていたこともあった。ただ急いで通り過ぎた。また真夏の焼け跡の整理中に、学校敷地内に倒れこんだ、老婆と思われるような人物が、そのまま息絶えたこともあった。

 その間にも空襲を知らせる警報が鳴り、わずかに残ったコンクリートの障壁に隠れた中で、友人の一人が、広島でのピカドンといった新型爆弾のことを、兄から聞いたと話してくれたことなどあった。

 1945年8月15日の直前の頃といえば、私事の経験ではこうした日々だったのだが、それでも子供の特権か、登校しなくて良い日は、空襲警報の合間を縫って高梁川に泳ぎにも通っていたのである。

 8月15日も、私たちには空襲のない貴重な休日だったのである。当日の川からの帰り、まだ高い日差しの照りつける中で、何時になく家々が静まり返っていた異様さは、今も忘れられない。

 その後65回この日を重ねたことになる。そのうち考古館での60年間の日記があり、この日の記録がある。一応すべてを繰ってみたが、考古館では、来訪者の記録と調査などに行った記録が主であり、内容で終戦日に触れていたのは数例だけであった。

 25年目の1970年に、台風9号の記述と共に、終戦から4半世紀、早いものという記述がある。1981年には、終戦の日、右傾化が強まる中、例年になく戦争体験の発言・・というような記述。2001年小泉首相が、靖国神社参拝は熟慮中といいながら、前日に参拝していた件と、ニューヨークで大停電が起こった事件が、記載されていた。

 そのほかの8月15日といえば、1965年には、一階の1つのドアを開けたら、そこに蛇が横たわっていたとか、1968年には、船穂町の涼松貝塚で5体の人骨を調査したとか、2002年には、部屋へ入り込んだ野良猫の子猫が、本棚の下に隠れて出ない・・・等々

 こうした話題の中には、すでにこの「よもやまばなし」で取り上げたものがあるが、この遅まきながらの考古館のホームページのインターネット接続は、たまたま2007年8月15日だった。日付は8月1日付からであるが。

 今回でこの「よもやまばなし」も(86)話、今年は考古館60周年記念ではあるが、当館のような小博物館では、特別な記念行事はとても出来ない。下記のような考古館で行った調査の、ささやかな講演会を催す事と、60年間のまさに考古館やその周辺の四方山話であるこの欄の話を編集し、小冊子『倉敷考古館 倉のうちそと六十年』を作ることで、館の還暦の記念とすることとした。考古館の60年間の一端でもより広く知っていただきたい、との意図からである。

 六十年の長きにわたり、当館にたいする皆様のご支援・ご協力を心より感謝すると共に、今後ともの変わらぬ御支援、まずは下記講演会に多数の皆様のご参加と、小冊子のご購読をお願いするのが、今年の考古館の8月15日であります。


倉敷考古館講演会
《題目》倉敷考古館 六十年の歩みの中で
*里木貝塚の人骨たち~瀬戸内の縄文人~---間壁葭子
*安養寺の瓦経塚~末法の時代~-------間壁忠彦
《場所と日時》
場所 倉敷公民館 二階大ホール
日時 平成22年11月20日(土) 午後1時半~4時半
(当日会場には駐車出来ません)
《入場無料》

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