考古館の記事で「千人塚」といえば、ああ古墳の名前かと思われそうだ。だがこれは130年ばかり昔の、明治17(1884)年8月25日に関係した塚である。
考古館の記事で「千人塚」といえば、ああ古墳の名前かと思われそうだ。だがこれは130年ばかり昔の、明治17(1884)年8月25日に関係した塚である。
2011(平成23)年3月11日、この日が歴史上でどのように記憶・記録されるかはこれからのことである。この日の午後2時46分のマグニチュード9.0の大地震、しかも大津波を伴った大災害以来、マスコミは丸三日たった日も、引き続きこの関係の報道のみである。その実態を伝えるために、3月14・15日の報道状況そのままを、ここに残しておこう。まず震災発生以後、ほとんど全てのテレビ番組からコマーシャルは消えていた。
この災害は東北・関東震災から信越震災へと広がる、あまりにも大きく広範囲の災害である。14日、まだニュースの優先順位さえ付かない状況。報道に報道が重なり、三日目だが、なお津波状況の新しい各地の映像が、次々放映されている。死者・不明者は万を越すという以上、正確な数値さえ見当も付かない。マグニチュード7からの余震が続き、その都度に報道はめまぐるしく変わる。・・・津波で破壊した市街地を火災の火が舐め尽して行く・・・被災地の捜査も片付けもままならない・・・遺体が1000人以上漂着した所もある・・・・自衛隊は10万人規模の動員である。
その中で、東京電力の福島第1原子力発電所では、二度目の水素爆発があったことが、慌しくテレビでは伝えられる。ここでは既に、20km範囲内の人々は避難している。地震や津波での避難者は40万人を超し、各地での孤立者も2万5000人に上るとか・・・通信手段が無い・・・
東京都内では交通手段の多くが停まり、「帰宅難民」の新語が出来た。電力不足のための、計画停電が行われ、・・・・生活の不安・物資や食料の買占め・・・まさに20世紀も前半の戦時下の再現か・・・つぎは大都会からの災害疎開では・・・既に底流では起こっている。
翌日15日には、福島原発はますます不気味な様相を示してきた。テレビ報道はこの日から、コマーシャルが入りだし、多少普通放送が入りだした。しかし原発では放射能濃度が格段と上がりだし、直接浴びると人体に影響があるとのこと・・・都会ではますます物資の買占め・・・救援も均等にはいかない・・・株価は暴落し、不気味に円相場だけが急上昇・・・・・
わが国で1000年来の災害という。しかも現代での大津波は、原発を初め、巨大都市文明・交通網・通信網等々、人間が作り出した文明の大きな落とし穴までも洗い出してしまった。その後、日々報道は変わりながらも、終わりは見えるどころか・・・・・原発事故は、決死の放水での防御も、空しいのでは(一週間後の状況)・・・・・広範囲の被災者の方々を思うと、胸の痛むばかりである。・・・・しかしこれはわれわれ全ての者の、明日の日の姿かもしれない。
災害の少ないところと、少々のんびりしているわれわれの周辺でも、最初に示した「千人塚」、これは現在の倉敷市内で起こった出来事である。僅か130年ばかり昔に過ぎないが、倉敷市内の人でも、今どれほどの人が知っているだろうか。
倉敷市の南部かつての児島の、西面に位置した広江地区は、その名のように、江戸時代末近くまで、前面は海であった。この広江には、縄文時代以来、各時代の遺跡が続いており、その遺跡調査にはこの千人塚の下を通る道を通った。
広江遺跡の調査や遺物については、この「よもやまばなし」でも49.57.60.71などで度々取り上げてきた。実はこの広江の前面に広く広がる、福田新田と呼ばれた干拓地に関わるのが、千人塚である。
この塚は、広江のかつての浜の北端に当たる低い尾根先端近くにある。岬だったその地の眼下に広がっている、広大な土地が干拓されたのは、いよいよ幕末近い、1842―1852年の間であった。
その後30年ばかり経った、明治17(1884)年8月25日の夜半に、大災害が起こったのである。暴風に満潮の高潮が重なり、山のような大波は堤防を決壊し、瞬時に田も家も呑み込んだという。地元の『福田町誌』(1958年)では大津波と表現されている。
この町誌によると、児島郡から岡山県に出された状況報告には、被災地内は700余町歩(約700ヘクタール)の沃地で、そこには800余戸ばかりの家があったが、そのうち500余戸が潰れ、溺死者は600人余、牛馬30余頭・・・とある。また『新修倉敷市史』(8巻自然・風土・民俗)(1996年)には、破壊・流失家屋803戸、検視遺体546人、このうち身元不明の256人は合葬されたとある。
このときの暴風被害は、岡山県下では死者と不明者が655人だったとあり、この新開地一村の被害の多さが分かる。局地的とは言え、まさに今回の津波なみである。
ちょうど一年後に、その合葬地に「合葬の碑」と記し、長文の、身元不明者の幽魂を悼む供養碑が建てられた。それが千人塚と呼び習わされてきた。最初、左上の写真に示した碑である。
ところで上の写真は、この大震災翌日2011年3月12日の、倉敷考古館前での情景である。報道ではすさまじい津波の猛威を目にする中で、倉敷考古館前あたりでは、常に繰り返されている花嫁姿の撮影風景、また家族連れの平穏な姿が目に入る。異常の中では、平常の方が別世界に映る。
平凡でも平穏な日々が、平常の世界として、被災者の方々の上に1日も早く訪れることを、心から祈りたい。
そうしてわれわれも、本当の平穏と豊かさとはなにかを、真剣にこの大災害から学ぶことが、多くの死者へのせめてもの供養であろうと思う。 この「よもやまばなし」は4月1日付、エイプリルフールという言葉が、本当に空しい。