東日本の大震災は、わが国全体のことと、みんな意識はしていても、西日本で暮らす者には体験的な感覚ではないかもしれない。だが身の回りのすぐ近くに、思わぬ影響が現れて、実態を痛感しておられる人も多いであろう。
東日本の大震災は、わが国全体のことと、みんな意識はしていても、西日本で暮らす者には体験的な感覚ではないかもしれない。だが身の回りのすぐ近くに、思わぬ影響が現れて、実態を痛感しておられる人も多いであろう。
こういう私たちも、東日本の観光産業の人たちが、観光客の激減を訴えておられるのと、変わらぬ経験をしている。
また近年は倉敷河畔でも、観光客中で韓国語・中国語を耳にすることのほうが多いようにも思えていたが、このところぱったりと、耳にしない。これも東日本に限らず、著名な観光地と同じである。全体として倉敷河畔では観光客の多い時期でも、静かな時が多い。
たまたまこうした静かな考古館前で、小さい子供達の声がした。ちょっと見ると全く同じ大きさくらいの3人、いや1人は少し大きいか・・・考古館前の中橋の上を元気に駆けている。橋の欄干の隙間から落ちないかと思われるような小さゝだが、元気なお子たち。
後を、今一人子供を抱いた若いお母さんらしい人が、追ってゆく。
ああそうだ!・・・失礼と思ったが、カメラを持って後を追った。おそらく双子さんがいる・・・
橋の向こうで、連れの方(恐らくお母さんのお母さんか)に、抱いたお子さんを負ぶってもらっていた若いお母さんに、「双子さんですか?四人みなごきょうだい?」と声をかけたら、そうだとのご返事。写真撮らして頂けるか尋ねると、OK。すぐ子供さんを集めて下さった。
双子の二人も、お姉ちゃんも、何も言われないのに、手で示してくれたのは、年令のようだ。4才の下に二人の2才児、その下に負ぶされているもう一人・・・子育ての大変さを思うが、お母さんは溌剌とされていた。ここに載せさせてもらったのが、そのときの写真。考古館周辺の普段の1コマということでもある。
とは言え考古館にはまるで関係もない、双子連れの家族を呼び止めるなど、お遊びかと、叱られそうだが、実はたまたま『続日本紀』の中の、四つ子や三つ子の記事を思い出していたためである。近年は子供の少ない家族が多いが、この界隈に多くの小さいお子さん連れで来られる人も少ないのは確かである。
現在わが国では少子化が問題になり、その対策で示された政府の「子供手当て」が、今も大きな政策の論点になっている。いずれにせよ、国の将来を背負う子供の状況や扱いは、その社会の実像を示すもと言えよう。
わが国では、かつての大戦中は、「産めよ増やせよ」の大号令が掛かった時期だった。兄弟姉妹が4~5人は普通の事。現在の中国の「一人っ子」政策も、また中国の切実な現状からであろう。だが、これが何時まで続く事なのか。
わが国の奈良時代を記す、正史として編集された『続日本紀』には、四つ子や三つ子が記載されている。というのも、こうした多くの子供を同時出産した女性には、子供手当でもあるような支援を、国が支出しているからだろう。
『続日本紀』は7世紀末の697年、文武天皇の藤原宮から始まるが、桓武天皇の延暦10(791)年までが収められており、ほぼ奈良時代の8世紀について書かれている。その中には、こうした多胎の例が18例出てくる。しかしその間の、全国全ての四つ子や三つ子が、取り上げられていたとは思えない。
四つ子の場合は2回、共に2男2女。3つ子では、3男が11回、3女は2回、2男1女は1回。ただ3つ子というのが1回。このほか、男児の双子、次は女児の双子、もう一度男児の双子を産んだという場合もある。ここに見られた事例では、あまりにも男児の同時出生が多すぎるのではなかろうか。
しかも最初の藤原京の時代は14年間に過ぎないが、7例も記されているにも拘らず、平城京に遷都してから、称徳天皇の死去までの約60年間には8例しかない。この間最後の12年間に当る、淳仁天皇と、女帝で2度にわたって位に付いた、その後半の称徳天皇の時期には、事例は0であった。次いで天武系から天智系へと、大きく系譜の変わった光仁・桓武天皇の時期になると、約20年間に3例が記されていた。
また平城京に遷都して間もない和銅7年に、四国の土佐の国で三つ子が生まれたという記載以外は、他の全ての例が、都や近畿地方に東国と限られているのである。
こうした人々への支援は、基本は稲などの食料と乳母一人である。ただ藤原京時代とそれに近接した時期だけには、布・綿などが加わっていた。双子を3回続けた場合だけは、最初の2男児だけが、大舎人に取り立てられたのである。
この当時の大舎人は、高位・高官の子や孫だけが付ける、いわば有利な官職であった。これから見ても、珍しい多胎例に対する贈与物が、ただ支援というのでなく、褒章の意味があったことが窺える。
男児ばかりが多いこと、時代によって記載例の多さに差のあることと、奈良時代、血塗られながらめまぐるしく変わった政界を、背景においてこの記事を見ると、また別のことも想像される。
文武天皇から聖武天皇に皇位をつなぐことは、新しい国家体制を整える事を目指した、天武・持統朝の悲願ともいえよう。その間は、おおくの男児が望まれたともいえる。
しかし淳仁・称徳天皇の時代は、皇位継承問題も絡んだ政争が繰り返された時代である。この頃は、記載記事が多いため、多胎記事まで、正史に取り上げられなかったのか・・・国の支援など、全く考えない時代になっていたのか・・・あるいは、独身の女帝なので、子供の事は、憚ったのか・・・
とまれ、遠い奈良時代のことでなく、現代は、子供の出生が政争の具とならない社会であるように、写真の4人の子供さんたちの、未来の夢が膨らむ社会を、心から願いたい。