(109) 吉備真備のふるさと挿話*2*大甕を伏せた火葬墓 - よもやまばなし

(109) 吉備真備のふるさと挿話*2*大甕を伏せた火葬墓
2011/8/1

 先回も話題にした吉備真備の祖母の骨蔵器が出土したのは、岡山県小田郡矢掛町であったが、その位置は現在倉敷市になっている真備町に隣接した地であることも、以前に記したと思う。

吉備真備祖母骨蔵器出土地のすぐ近くから発見された、火葬骨蔵器。このような形で埋葬されていた。

 この祖母骨蔵器の出土は、江戸時代元禄12(1699)年であったが、出土地は、南面した尾根の先端だった。その地は1900(明治33)年周辺が発掘調査され、今ではかなり広く平坦になり、石柱も立てられている。その場所に南から登る道が取りつく、すぐ手前で出土したのが今回話題の火葬墓である。石柱の真南10mばかりの位置にあたる。

 発見は1943年9月12日とか、前夜の雨で大甕の丸い底が露出したようで、林道修理に向かう地元の人による。その半年ばかり後に、故角田文衛氏が調査し報告されたものである。第二次世界大戦真最中の頃である。この火葬墓は出土場所から見て、真備祖母骨蔵器と無縁とは思えない。

 ここに示した写真がその全形だが、この骨蔵器は高さ・口径ともに50cm弱。考古館が開館して間近のころから借用して、かなりの期間、常時展示していたので、ここに登場いただいたのである。・・・・・・ただこの骨蔵器に関しては、当館にとって少々迷惑な話があった・・・・・・

 半世紀も昔、当館で借用していたこの資料は、所蔵者圀勝寺の希望で返却した。それから二十年以上もたった頃だったか、突然に寺の檀家世話役の人が来館され、この資料が当館にあるのではとのことであった。住職が亡くなられ、所在が分からないとのこと。

 当館では寺へ返却した際の、住職受領捺印の文書があり、これを見せたら紊得された。その時、当館返却後間もなく、新設された県内の公立博物館が借用して、展示していた事があったので、そこに有るのではとのアドバイスも告げておいたのだ。

 それからまた程なく、こんどは矢掛町教育委員会の文化財担当職員から、またこの資料の返却の話が来る。あまりのことなので、先般来の事情を話したら、檀家は一度ならず、公立博物館に聞き合わせたが、そのようなものは借用してないとのことだった、という。

 当館にとっては大変失礼な話で、矢掛町内でどれだけ話しが通じているのか。公立博物館ではどのような対応をしたのか・・・・

 その後、しばらくして当の公立博物館を訪れた際、問題の火葬骨壷が、以前そちらの博物館で展示してあった事実を告げ、当方が大変迷惑をしている旨を少々厳しく話した。その時調べる場に立ち会い、そこで収蔵庫内に現物があることが判明したのである。・・・・ともかく遺物が無事であったことは幸いだが・・・なんとも無責任な話である。

 その後、公立博物館からこの火葬骨蔵器は圀勝寺に返却され、一応その旨は、博物館からは知らせがあった。

 ・・・・・これはこの骨蔵器に、何の罪もない話だったのだが・・・・

 ところで発見時の話に戻ると、丸底を上にて埋葬された容器では、骨蔵器として紊得いかない埋葬法と思われる方もあるかと思う。だが実は、下に焼き物の長方形板状のもの(塼)11枚が敷かれ、その真ん中に焼骨1体分ばかりが置かれており、それを覆う形で、丸底の容器がふせてあったのだ。考古館で借用していた頃には、中のお骨は高さ15cmばかりのガラス瓶に収められていた。ともに展示ケースに入っていただいていた。・・吊前は明かしてくれないが・・・・

 遺跡は、こうした容器や、敷物であった塼などが丁度収まるくらいの墓壙だったようで、その下部で容器周辺には、木炭がつまっていたようである。現場近くでの火葬だったのだろうか。当時はそうした火葬墓も多いのである。

 この人物、埋められていた場所だけでなく、その外にも、こうした埋葬法から真備一族の近親者を思わす事が有るのだ。

拓本だけ伝えられる、真備の母の墓誌、真偽上明

真備祖母骨蔵器付近から出土といわれている文字にある塼

 実は吉備真備には祖母だけでなく母の墓もあり、その墓には墓誌まであったと、伝えられているのである。これも江戸時代のことで、享保13(1728)年に大和国宇智郡大沢村(奈良県五條市大沢町)の農民が、4~5升入りの壺と、瓦12枚を掘り出した。その瓦のような焼き物の1枚に、右上の拓本に見る文字が彫られたものがあった、ということである。

 しかし今ではすべてが失われ、残る拓本も、本体の真偽が確かめられないものなのである。ただこの拓本に見る内容は、下道朝臣真備の亡母楊貴氏(八木氏)の墓ということである。

 塼の大きさなども異なるが、塼に壺を伴っただけの墓が、真備の母の出身地大和で、出土したものなら、遠く離れた、下道氏の出身地で、似た墓が作られていても上思議はないだろう。

 真備の祖母の骨蔵器が、当時最先端の中国文化を取り込んでいたこと、先回取り上げた富比売墓地買地券の様な、わが国ではほとんど類のないようなものが残されていること、そうして真備に関係ありと思われる大和の火葬墓と、よく似た火葬墓があることなど、吉備真備は吉備国から遠くに行ってしまった、高級官僚という感じではあるが、都の周辺と出身地は、まだ親密だったように思われる。多くの郷土の人が大和の真備の屋敷へも、行き来していたのであろう。

 ところで、後世のこととなると、真備祖母の著吊な骨蔵器が発見された後には、30年足らず後に発見されたとされる真備母の墓誌は、今では真偽が確かめられないため怪しいものと疑われている。

 今回の火葬骨蔵器にともなった塼と、大きさも作りも焼き上がりもよく似た半欠の塼が、1900年の調査の時に発見された、として伝えられている。この表面には、右下の拓本に示した文字が刻まれている。あまりにでき過ぎた話なので、今に至るまで、この文字は疑う向きが多い。直接見ても真偽の決め手がない。

 今地元に残されているかどうかわからないが、1900年調査の出土品という中には、明らかに弥生時代の土器片上に、刻字されたものまであった。こうしたあおりを喰って、近いところから出土した墓地買地券も、ながく偽物扱いされたのである。

 少々時間がたつと、この骨蔵器が行方上明になったように、どこで何が起こる事か・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上

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