各地の博物館とか、何とかの会などでは、創立何十周年記念ともなれば、特別に大掛かりな、あるいは趣向を凝らしたイベントが組まれ、宣伝も大掛かりにされている。こうした中には、長い歴史をアピールするかのように、開館時あるいは創立当初の展示とか、その当時の状況が復元され、古い歴史を思わすものとして注目を浴びていることもある。
ところで当考古館でも、昨年が開館六十周年であった。考古館の歴史も、地方の私立の小博物館の歴史としては、けっして短いものとは思っていない。そこで開館時の展示とまでは行かないが、60年の間に、この小博物館で展示してきたもの、ささやかながら研究を続けてきたものを、今一度思い出しながら「よもやまばなし」に加えていきたい。
というのも実は前々回の109話だったかで、吉備真備祖母骨蔵器のすぐ南で発見された火葬骨蔵器を話題にしたが、この資料は当館が、開館近い頃に、借用展示していたことから、その後の行方不明事件の話にまでも、なったものであった。
この件を思い出したとき、これも当館の歴史であり、かつて借用展示していたこともある注目すべき遺物や、かつては年に1~2回は行ってきた小特別展や、独自の調査研究についても、当然話題にしても良いのではないか、とも思ったからである。
効能書きはそこまでとして・・・・・今回は、石の上にも三年ではなく、石の枕も当館の展示ケースの中に数年・・・上に載せた図の下のものがその石の枕、せきちん「石枕」と呼んでいる物。図では何のことか分かりにくいが、横の長いほうが52cm、縦は41cm、高さは14cmばかりの砂岩中央に、人の頭が乗るのに都合が良い形に、窪みが彫られ、周辺には縁取りの飾り彫りなどで加工された物。表面には鮮やかな朱が付着していた。
開館して間もない頃に、個人所蔵者から借用展示していたが、数年で返却したもの。現在は岡山県立博物館蔵となっている。ただ常時展示されているかどうかは、わからない。 この石枕は吉井川の東岸で、備前市の西南の端に当たる新庄の小丘陵上にある天神山古墳出土品、1947年に掘られたという。この古墳は、古くから東北に前方部を向けた120mからの前方後円墳とも言われてきたが、現在では50m前後の円墳ともいわれている。
いずれにしても、かつてこの古墳が掘られた時の事情については、考古館開館時の指導者であり、この「よもやまばなし」31話で金蔵山古墳発掘の逸話でも登場いただいた、当時の京都大学梅原末治教授の報文がある。それは『瀬戸内海研究 第八号』(1956/3)の「岡山県下の古墳調査記録(一)」で、この新庄天神山古墳のことを報じているが、とくに発見に関しての部分では、次のように書かれている。以下は全くの要約である。
「昭和22(1947)年11月、敗戦後の混乱の時期に、この古墳が地元民によって掘られ遺物が持ち出された。その時、村長その他も立ち会ったという。私が(梅原)が知ったのは3年後倉敷考古館開設の準備に関与した際である。石枕などの出品要請があって、事情を知り、発掘当時の覚書を要請し、すぐに送られてきた。全て埋め戻されているので、その覚書をもとに記述・・」として内容の報告がある。
この古墳では、竪穴石室内に刳抜の石棺があり、中に別作りの石枕があった模様。これが取り出されていた石枕である。しかし実際にはどのような状況であったのかは、今となっては分からない。梅原先生の石室と石棺、遺物の配置などの推定図は記されているが、これも推測に過ぎない。勾玉・管玉・石釧(石製の腕輪)鉄器類などが出土したとされ、考古館では石枕と共に、石釧や玉類も借用展示していた。
いずれにしても天神山の石枕は砂岩製で、岡山県にはこのような古墳時代の石枕は、全く知られていないし、石棺や石枕が作られるような砂岩がない。どこからか運ばれてきたものとおもわれるものだった。
左上の図には、天神山古墳の石枕の上に、いま一つ拓本図がある。これは天神山古墳の石枕とよく似た石枕の拓本で、九州の佐賀県唐津湾岸にある谷口古墳から出土した三基の石棺のうちの1つ、長持形石棺の底板に、そのまま彫り出されている石枕の拓本である。この石棺は、その近くに産地のある砂岩製である。天神山の石枕の石も同じに見える。
考古館でこの石枕を展示していた頃には、まだ古墳時代の重い石棺が、はるばる九州から近畿地方まで運ばれたり、兵庫県の石材が各地に運ばれ、特に近畿の大王墓の棺材になっているなど、思いもよらなかったのが、考古学の常識の時代だった。
20年ばかり後になって、私たちは石棺の石材とその形との関係、古墳時代の政治史を背負ったような、この石棺のダイナミックな移動を、博物館の仕事の合間に、幾年追って、その大筋の動きとその意味を明らかにしたことか。いまでは古墳時代の常識となっていることを。
その時私たちも、この石枕が示す問題の大きさに気づいたのである。古墳時代もはじまりから100年以上も経ってきたころ、吉井川の東岸地域の主たちはどのような 動きをしていたのか・・・・彼なのか彼女なのか、在地の人物だったのか、九州人と関係あったのか・・・石枕に頭を乗せていた人に、まだまだ聞かなければならないことは、たくさん有ったのだ。