(113) 穴が開けられた石棺―鶴山丸山古墳の不思議(2) - よもやまばなし

(113) 穴が開けられた石棺―鶴山丸山古墳の不思議(2)
2011/10/1

 先回鶴山丸山古墳出土とされた、大管玉と車輪石のことを話題としたが、この古墳発掘は先回も述べたように75年も昔のこと。当時としては宝探しのようなものだろうが、現代の目で見れば、半ば盗掘ということになるだろう。

鶴山丸山古墳石室内いっぱいの石棺。立派な彫刻のある石棺蓋に、無残に孔が開けられた。(丸山古墳の報告書より)

 ともかく大量の遺物発見後、届けられ公にされた遺物が、東京国立博物館に収蔵されているものである。先回鏡は30余面出土といったが、東博に収蔵されているものは17面に過ぎない。この古墳では報告書(梅原末治「備前和気郡鶴山丸山古墳」日本古文化研究所 1938年)に載るものだけが博物館にあるのである。

 ここに示した写真は、先の報告書にある石棺の写真をちょっと拝借したのだが、立派な加工と彫刻のある棺蓋に無残に大きな穴が開けられている。むかしこの穴から、たも網で中のものを掬いだしたなどの噂話も聞いたが、その真偽のことは、今となっては誰にもわからないだろう。

 こうした発見が知られたことで、梅原氏など京都大学の研究者の手で、緊急の調査が2日間行われた。しかし石棺内部は一切調査の無いまま、石室はコンクリートで閉鎖されたのである。ただこの報告書によると、見物人が石棺の壊された穴から石棺内に手を突っ込んで、朱の塊と、脊椎骨一つを取り出したとあり、すぐそれは丁重に館内に返したとある。

 いずれにしても後になって、鏡は、知られたものと同数ばかりの他の鏡が、この古墳出土とされるようになった。四半世紀も後になって、考古館蔵品となった管玉もこの古墳出土と伝えられていた。

 実は今ひとつ、この石棺に穴が開けられたときに、壊された棺蓋の石材破片を、保管していた人がいたのだ。それを知った知人の研究者が、われわれが石棺石材を研究していることを知って、入手し提供してくれたのである。

 貴重な資料であった。鏡や玉なら誰しも気付くものだが、棺の石片の価値などには、思いも寄らない人が多いだろう。この小さい石片は、この古墳の性格を大きく示していたのである。

 このあたりでは他に例の無いこの立派な石棺は、香川県東部の白色に近い凝灰岩の石材で製作されていたのである。香川県の東部には、この石材で作られた古墳時代の石棺は、以前から知られ、舟形の刳抜石棺だったが、丸山古墳のような形でもなく立派な彫刻もない。形や彫刻のある石棺と言うことでは九州の石棺に似ているが、それぞれに新古の問題があって、系譜をたどるのはむつかしい。

 ともかくこの石棺、材料はもちろん、姿かたちは九州や四国の石棺の要素から、まさにこの古墳のために新生したともいえる姿。瀬戸内海を渡り吉井川を遡って、後に山陽道となるような陸路との交点の位置にある、鶴山丸山古墳まで運ばれていたのだ。

 しかもこの棺だけではなかった。石室の天井石として、数枚の板状に加工され、移動のために必要な大きな穴や、縄掛けの突起まで付いた石までもが、一緒に運ばれてきたと見られる。しかもわが国内製作の鏡ばかりではあるが、30面を超える鏡を副葬していた。

 分かっているものだけとはいえ、古墳時代を通じて、30面を超える鏡を副葬した古墳は、数基しかないのでは。この古墳の外観となると、円墳で特に目立つものではなかった。

 ・ ・・・この古墳の主はいったい何者だったのか・・・

 『古事記』『日本書紀』の中には、時々に吉備一族の勢力の巨大さも語られ、それを裏付けるように、かつての吉備の中枢部には、河内にある大王墓に匹敵する大古墳があることも、著名である。

 ただ『日本書紀』の応神紀中で、吉備の兄媛(えひめ)を慕って訪れた応神を迎えた「あしもりの宮」で吉備一族の地として示されるのは、吉井川以西の、岡山県南部一帯である。鶴山丸山古墳のあたりは圏外のようだ。

 一方『古事記』の仁徳記中では、吉備の海部(あまべ)直(あたい)の黒比売(ひめ)を追って島伝いに吉備をおとずれた仁徳は「山方」で黒比売と逢うが、この地はどこかよく分からない。ここで黒比売が仁徳に対して歌った歌の一つが、

 「倭方(やまとへに)に 西風(にし)吹(ふ)き上げて 雲離れ 退(そ)きおりとも 我忘れめや」

 (大和のほうへ西風が吹いて、雲が離れていくように、あなたと離れ離れになっていても、私を忘れないでいて)

 ところがこの歌は、浦島太郎物語の原型と言われている、丹後国風土記逸文にある「浦(うら)嶼子(しまこ)」の話の中で、嶼子が仙人の地から国に帰って神女からもらった玉手箱を、約束を破って開いてしまった時に、神女から贈られた歌が、まったく同じ歌であった。

 これは海の彼方から来たような人が去っていくときに、その地の女性が彼に送る、恒例の歌だったようだ。・・・黒比売と仁徳のラブストーリイには水?・・・・

 とはいえ鶴山丸山古墳の所在地や不思議な副葬品や石棺を見ていたら、何の根拠もないことだが、交通の要路にいて、しかも遠い海の彼方ともかかわる人物で、呪的な玉や鏡で飾られた神女が重なってくる。黒比売伝説も、わざわざ「海部」とことわるのも、こうした古墳の存在が影響したのかもしれない。

 古墳調査の際、見物人が勝手に取り出した人間の脊椎骨、彼なのか彼女なのか、せめてそれでも分かれば・・・・・本当に分かったら、勝手な想像は凋んでしまうだろうが・・・

Go to Top