下の写真の鏡は、4年以上も昔のこと、この「よもやまばなし」が始まって間もない第3話、(2007年9月1日)で話題とした古墳出土の・・・・「ちょっとストップ・・・写真間違えていませんか? 何処に鏡があるのか・・・」 それそこに半円形に6個並んでいるものです「・・・これが鏡??」 申し足りませんですみません、鏡の模造品でした・・・・・「ヘーこれが鏡の模造品???」
この気ままな話題の中で、正月に辰(竜)が割り込んだので、「鏡話」が途中で途切れてしまったのだが、実は今回の話題は、この「よもやまばなし(118)」の三角縁神獣鏡に続くものだったのである。それは古墳時代の始まった頃の古墳から、大量の鏡が出土するが、中心の1面の鏡のみ遺体の胸や顔に添えられていたが、他の多くは、遺体を取り巻くように配置されたことを述べていたものだった。
そこでここでは、少々時がたって、古墳に大量埋納していた鏡が一体どうなったかということ・・古墳の始まり頃からみれば既に150年以上は経っている頃か・・その頃としては、最先端の鍛冶屋道具一式を埋納していた、総社市 随庵古墳の他の出土品の一つに登場いただいたのである。(上の随庵古墳をクリックいただくと、以前の話題となる)
かつては古墳に大量に納められていた鏡は、使用するしないは別として、みな実用品であったといってよい。鏡だけの話では無い。やや新しくなると、途方も無い量の鉄器なども埋葬されていた場合もある。今の感覚ならもったいないというような、当時としては大切な道具や武器の無駄な消費なのである。
ところがそれらは、何時の間にやら模造品に変わっていく・・・・
大体古墳にめぐらされた埴輪自体が、すべていろいろな器材や動物などの模造品なのだから、中の副葬品も模造品になって何の不思議も無い。人間の合理性の知恵なのか、横着なのか・・・特に中国の明器(墓に埋葬されるために作られた模造品)に倣ったもの、などと考える必要は無いだろう。
随庵古墳に埋納された鏡も、遺体の胸辺りに添えられていた1面の鏡は、決して数多いとはいえない、中国からの輸入品(位至三公鏡)だったが、頭周辺にめぐらされた鏡は、軟質の石で作られた直径が3~4cmばかりの、小さい円盤に変身していたのである。ただし古墳の棺内に、こうした大変簡略な鏡の模造品を入れる例は、むしろ珍しいのである。
この種の鏡は古墳以外の遺跡で、多く発見されているのである。自然界の山や川、岩や木などを祭ったような場所からの発見なのである。勾玉や剣形を象ったと思われる、鏡と同じような小さく薄い板状の石製品と、一緒に発見されているのである。現在の神社に捧げる玉ぐしのように、木の枝にこうした物が付けられて、捧げられたと考えられている。古墳時代の中ごろ以後に、こうした遺跡の発見が多くなる。
例えば上の写真は、考古館で展示している3点の鏡を一緒に写したもの。この中で部分のみ写る最大のものが、先に話題とした三角縁神獣鏡で、直径が21.5cmばかり。これに比較して左上の鏡がいかに小さくて、普通なら鏡などとは思い及ばぬもの。直径が3cmあまりの薄い銅製品であるが、まだこれのほうが先の石製円盤よりは、鏡に似ているであろう。
この代物は、「よもやまばなし」でよく取り上げた、倉敷市内を流れる高梁川の河原に展開した、各時代の遺跡が重なった酒津遺跡で、やはり中学生が採集したものだった。おそらくかつての川で、遠い祖先が、洪水を防ぐ祈りか、旱魃に水を求める祈りか、ともかく主要な水に関係した祭りに使用したものだろう。
こうした模造品の鏡や、土器の模造品などが発見されて、死者に対する祭りとは別の、当時の人々の祈りのさまを、窺わしてくれるのである。・・・大切な神への願いの筈なのだが・・・
しかし河内の人物は、ひょうたんを川に投げ込み「真実の神ならばこのひょうたんを、沈めることが出来るだろう。沈めれば自分も水に入るが、それでないなら偽りの神だ!」という。ひょうたんはどのようにしても沈まなかったので、彼は死なず、堤も出来上がった・・・というような話である。
ところで問題の随庵古墳には、当時のいわば最先端の道具と共に、棺内には埋葬例の少ない、自然界に対する祭祀にも関わるようなものが副葬されていたのである。以前にこの古墳話題にした時も、副葬品から埋葬者の性別や、職種のようなものは定め難いといったが、死者埋葬にたいする意識も、時代の推移で、一筋縄にはいかないようになっているようだ。
・・・真実を映しだすはずの鏡も何時の間にやら、模造品になっていて、さて鏡とは何なのだろう・・・