(133) むらすずめ - よもやまばなし

(133) むらすずめ
2012/9/1

 倉敷で「むらすずめ」と言ったら、誰しも倉敷の代表的な和菓子と思う。左の写真のような菓子で、小さいがふっくらとした薄焼き卵風の皮で、粒餡を包み折りした物である。この菓子の命名は、先にこの「よもやまばなし」で取り上げた林薬局の、幕末から明治にかけての激動期に当主であり、倉敷の発展にも力を注いだ、林孚一氏によるとも伝えられる。

倉敷に古くからある和菓子「むらすずめ」

 ともかく60年以上前となる考古館開館の頃には、倉敷の菓子といえば「むらすずめ」や「藤戸饅頭」で、特にむらすずめは、あちこちの和菓子屋で、製作されていたことを思い出す。

 「むらすずめ」とは村雀なのか、群がる雀なのか、ともかく雀は人里に住まう小鳥であり、村に人がいなくなると、雀もいなくなるという。人の生活と密着して生きているのか、古くからの文献にも、当たり前に近くの鳥として出てくる。

 例えば『古事記』と『日本書紀』の両書に共通した物語として記載されている神話の中で、ある喪葬の儀式での仕事が、鳥たちに割り振られているが、そこにはサギ・カワセミ・カリ・キジ・スズメなどがいて、スズメは米搗きが命ぜられていた。いつも稲穂や米の近くにいたからだろうか。

 『源氏物語』にも、教科書にのるような有名な若紫のくだりに、雀が登場していた。「村雀」となると、平安末から鎌倉初期の歌人、二条院の讃岐と言う女性の歌に「呉竹に ねぐらあらそう村雀 それのみ友と 聞くぞさびしき」と言うのがあるようだ。

 彼女の歌は、小倉百人一首の中にも選ばれているが、彼女の父は、現在NHKの大河ドラマ「平清盛」の中でもしばしば登場する源三位頼政である。平氏政権中でも源氏として宮廷に残るが、平家討伐の機運のなかで、最初に兵をあげ、77歳で死んでいった人物である。だが彼は武人と言うより、歌人として有名だったようで、その娘の讃岐も、宮廷歌人として活躍していたようだ。

 「むらすずめ」がとんでもない横道にそれた。倉敷銘菓や歌人の説明をするつもりではなかった。ただ考古館の屋根の上に例年巣を作っている、雀の話の頭のつもりだったのだが・・・・

 実は考古館の開館時に近い頃から、例年考古館の屋根には、幾組かの雀の巣が作られ、かなりの雀が巣立っていっているようだ。3階などでは、雀の巣立つ5~6月頃、開け放している窓からやかましく雀の声がすることもあれば、古くはストーブ用に設けられていた煙突の穴に、雀が落ち込み、翌朝、館内に入ると、階下の部屋で雀が飛び回っていることが、しばしばであった。

考古館内の裏に落ちていた子雀

館の軒下で子雀を見る親雀

軒先にやっとさばっている子雀

 煙突のいるストーブは使うことも無く、穴をふさいだことで、室内で雀に驚かされることもなくなったが、狭い裏の館内通路に、屋根の巣から子雀が落ちて、死んでいるのは例年5~6件はあっただろう。これはまだ毛の生えてない程度の子雀ばかりだった。

 ところが今年(2012年)の7月も26日だったか・・裏の通路に5羽もの雀の子が死んでいた。しかもそのうちの3羽は親並みの大きさになっていた。もう1羽隅のほうにいるので、死骸と思い片付けようとしたら動いて逃げた。まだ生きていた(上の写真左端)。

 幾十年も前から、倉敷市では地元市民の努力も含め、紆余曲折を経ながらも、古い町並みの保存に努めてきた。私たちもささやかながら、その一端を担ってきたとの自負はある。しかし町並み保存・修景の中で、屋敷片隅のドクダミは雑草に過ぎない草であろう。庭園化した庭には姿は無い。

 先に話題とした林源十郎商店で展示されていた江戸時代の薬箪笥、この箪笥で、物好きにも276個と数えた数多い小引き出しには、見出し紙上に、それぞれ当時の漢方生薬名が記されていた。もちろん読み辛くなったものや、見出し紙が剥げ落ちたものもかなりはあったが・・・・

 この日には考古館の入り口にも、飛べなくなった子雀が、1羽うずくまっていたので、親雀の分かる位置に移動させた。雀の習性は全く知らないが、雀は巣立っても飛べなくなった子にはまだ餌を運んで育てるとか。裏の子雀はそのままにした。

 翌日、たしかに裏の雀に親が餌を運んでいた、しかししばらくして子雀はいなくなった。親にともなわれ、飛びたてたのであればよいが・・・・・館の外から屋根裏を見ると、親らしいは雀が軒先にじっととまり、周辺に気を配る様子。周辺を飛ぶ子雀らしいのや、軒先にやっとさばりついていた子雀もは見えた(写真の中・右)。

 考古館での今までの長い間には、幾度かこの{よもやまばなし}で取り上げたように、人様以外に、蛇にも(13話)、猫にも(63話)付き合った。時には犬が勝手に階段を上がっていったり、燕が屋内を飛び回ったり、雀がガラス戸に激突したり、蜂が飛び込むのは珍しくなかったり・・・こうもりらしきものには、警報装置の誤報で振り回されたり・・・様々な生き物との付き合いも、考古館では当たり前の営みの一つと過ごしてきた。

 これは、考古館の建物やその周辺が、まだ自然の多い中にあったためであろうが、現代博物館の常識から見れば、施設としては決して褒められたものではない。しかし善悪は別として、これが倉敷の考古館だったのだ。

 群がって身近にいるのがあたり前だった雀が、最近では絶滅危惧種になるのでは、と言われている。家々の屋根構造が変わり、巣を作る場所がなくなったためともいう。この点倉敷は、古い瓦屋根を保存する地域である。ここは雀のお宿のはずだ。

 この倉敷でも、確かに雀が少なくなっているようだ。先日の、考古館での大量の雀の死は、今年の天候不順も大きいと思うが、人がいなくなると雀もいなくなる、と言うのであれば、雀がいなくなると、人もいなくなる・・・と言う逆説にはならないまでも、倉敷の環境が変わったという指標にはなるだろう。

 倉敷のむらすずめよ、菓子の名前だけにならないで欲しい!

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