70年も昔のことだが、田舎でろくな遊び道具などは無く、買っても貰えない6~7才の男の子達は、瓦のかけらを円い形に割り、後はコンクリートの上などで周辺をすり削り、径5~6cmばかりの小さい円板を作った。それが何処まで上手に転ぶかを競った。これを「チンチンゴマ」と呼んでいた。
写真の奇妙な円いもの、これはチンチンゴマではない。れっきとした縄文時代晩期の土器片を加工して作られた円板である。最大の物の径は4cmばかりだが、全体としてこちらはチンチンゴマよりやや小さい。この「よもやまばなし」にさいさい登場した倉敷市広江・浜遺跡での数多い発掘品の一つである。
このような遺物は、日本各地の縄文遺跡から、ぱらぱらと出土しているようだが、出土状況にも特に特徴はなく、一体その用途は何であったのか、何処の遺跡でも確定しているとは思えない。
倉敷考古館でも今までに、縄文時代の各時期にわたる、かなりな数の遺跡調査を手がけてきたが、広江・浜遺跡以外では、この種の円板遺物には遭遇していない。近いところでは、岡山大学津島キャンパス内の、縄文時代末期頃の遺跡から数点出土しており、福山市の洗谷貝塚では、縄文後期のもの1点が出土している。
周辺の縄文遺跡では、あまり出土を聞かない。どこの縄文遺跡からでも出土する物ではないようだ。また遺跡にある土器のかけらから作ったもので、小さく、数も少ないためか、注目されてないともいえよう。
古く調査された、奈良県では著名な橿原遺跡の縄文晩期資料の中には、同種の土器片製円板は、80点も採集されている。しかしこれは真ん中に孔を開けているのが原則のようである。
滋賀県で、1974年完成の湖西線を建設する際、調査された滋賀里遺跡でも、縄文終末時代と考えられている時期に、問題の土器片製円板が34個報告されているが、これらは橿原遺跡の物と同様、孔をあけたものが多かった。広江・浜の孔の無い物と、同一視はできないだろう。
土器片を利用した土製円板の真ん中に、孔をあけている遺物といえば、これには確かな用途がある。ただし本体は弥生時代の土器片のはず。弥生時代に海外から新しく導入された文化の一つとして、機織技術があり、これに関係した遺物なのである。
機により織物を作るためには、多くの糸が必要である、その糸を紡ぐのに必要必用な紡錘車として、土製の特製紡錘車が、弥生遺跡から発見されている。しかも遺跡によったら、当時周辺にある土器片を再利用して、この円くて中央に孔のある紡錘車の代用品を作っていた。
先の橿原や滋賀里遺跡の円板も土器から見る限り、縄文時代の終わり頃のものではあるが、この土器片で作られた有孔円板は、紡錘車の可能性が強いと考えられている。こうした新しい海外の文化は、日本海経由で、琵琶湖を通り、いち早く奈良平野にも伝えられていたようだ。
・・・同じ頃の岡山の遺跡のものには孔が無い。数も少ない。この奇妙なもの、チンチンゴマと同様こどもの玩具なのであろうか?それにしても、瀬戸内を通じて、同様に新文化が入っている頃である。今までの社会と違い、変わったことが起こりつつあったかもしれない。
それまでの縄文人は海岸集落の人間も、多少離れた内陸で生活していたグループも、同じ身内で、互いに海の幸・山の幸を交換していたかも知れない。互いは、血縁者であったかも。互いのムラでの生産物要求に、少し大きくなった子供が現れても、「ああ、あの山すその子か、親に良く似てきたな」で通用していた・・・
・・ところが新しい文化が入り出すのは、新しい人の動きも多くなる時・・・・互いに身内だったムラ同士でも、相手がはっきりしないことも有るだろう。
「この次に来る時は、誰でもいいからこれを忘れないよう持っておいで、沢山、干し蛸あげるから」・・・・あまり見かけぬ顔の可愛い子供が、山からの連絡係で現れた時、浜辺のムラの大人は、そこの土器片で作った円い標を渡したのかもしれない。互いの身分証明のように・・・・
・・・子供は円い土器片を握り締めながら、めったに口に入らない干し大蛸の足1本をかじりながら帰って行った・・・・
70年前のチンチンゴマ、今もし偶然に土中から出てきたら、材料が最近の瓦とまではわかっても、一体何であったのか誰にもわからないだろう。
何時の時代の遺物であっても、何であるか訳の分からないものだったら、時に勝手な空想が楽しめる。顔も声の無い考古学の遺物と接する時の、ちょっとした骨休め・・・
だが真実はむずかしい。ともかく不思議な遺物である。