今年(2013)は肉眼でも見える彗星が、一つならず4月とか11月頃に近づくとか。2月15日にはロシアの都市近郊に大形の隕石が落下したり、その翌日には小惑星が地球にキスするばかりに近づき、かすめて去っていったり、天界の交通事情が賑やかなようだ。
・・・と言うことで、倉敷天文台を話題にするのでなく、これも全く偶然に、このところ話題の種にし続けている、考古館に僅かばかり残っていた、古新聞の中にあった記事である。毎日新聞1951(昭和26)年11月13日の岡山版、大きな写真と共に「屈折望遠鏡も据える― 近く新装なる倉敷天文台―」という大きな見出しがあった(左上写真)。考古館開館翌年頃のことである。
新聞に掲載されていた写真は、右下写真に示したドーム状建物に、まだ木で足場が組まれている姿だった。「新装」と言うからには、古い天文台があったはず、それが左中写真に示した、一見小屋状の建物だった。両者の位置はつい隣という関係。右下に示した写真は、少々分かり辛いが、両者を一緒に写したもので、旧天文台は右端下に小さく見える。。
新聞紙上には当時の天文台理事長、原澄治氏のコメントがあった。「二十五年の歴史を持つ倉敷天文台は、その間本田君が彗星を四回も発見した。・・・改装しこれから本格的に民間天文台の役割をはたしたい。・・・」
原澄治氏の私財によって、大原美術館開館より5年前の、1926(大正15)年11月に開設された倉敷天文台は、一般人にも公開された日本最初の天文台でもあった。原澄治氏は、既に45年ばかりも前に故人となった方だが、倉敷市に多く業績を残され倉敷名誉市民ともなった人である。
他地方の方でも、もしこの「よもやまばなし」を最初頃から目を通していただいた方なら、覚えのある名前では・・・・30話をクリックしていただければ、考古館開設が同氏の発案であり、考古館最初の木の表札が、同氏の筆に成った事などを記している。原澄治氏を中におけば、考古館と天文台も満更無縁の話でもないだろう。
しかもいま一つ、この天文台に生涯関わった本田夫妻とは、同じ倉敷に勤める者としての面識と共に、高校・大学へ勤められた夫人のお世話で、考古館に幾人かの人も勤めた。 ところで彗星12・新星(小惑星)11個を発見し、アマチュア天文家として知られる本田実氏が、倉敷天文台に勤務されだすのは、1941(昭和16)年からであった。原氏のコメントのように、彼は新天文台が出来る1951年の当時までに、すでに彗星4個を発見されていたのである。
ただ本田氏は、倉敷天文台に勤めだしたその年の内、戦場に召集された。この年の12月太平洋戦争は勃発。その戦場(マレイ半島)の中でさえ、イギリス軍が捨てて行ったレンズを拾って、手作りの望遠鏡を作り、周期彗星を発見「空に科学する兵士」(「読売新聞」1942/6/14付)など、新聞紙上にも取り上げられていた。
本田氏は、召集令状の赤紙が来て、以前から互いに好意を寄せていた人、学歴や環境の違いもあったことから、周辺の反対も有り、結婚がためらわれていた慧(さとる)夫人と急遽結婚し、そのまま戦場に向かわれていたのだ。当時兵士の居場所などは、軍事秘密だったが、本田氏彗星発見のニュースで、慧夫人は夫の無事と居場所を知ったとのこと。
1946年、終戦の翌年に復員、倉敷天文台でまた観測の仕事に付かれたが、慧夫人は教師として、ずっと生活を支えてこられた。長男が誕生した時、鯉のぼりが買ってやれないから、4つ目の本田彗星が発見された時だったので、「あれがお前の鯉のぼりだよ」といったのだ・・とつたえられている。
生活に追われ、希望も持てぬ敗戦後の日本で、はるか天空から訪れる新彗星を、世界の観測者に先駆けて、アマチュアの天文家本田氏が、次々と発見されていたニュースは、湯川秀樹氏のノーベル賞や、水泳の古橋広之進氏が大きな握り飯を食べて、世界記録を打ち立てた活躍などとともに、日本中の人々を元気付けたのである。その実感は今も記憶に残る。
こうした敗戦直後頃発見された彗星は、古い小屋のような観測所ではあるが、この建物の切妻屋根棟が、内部のハンドルを回転することで左右にスライドして開き、内部の望遠鏡からの観測を可能にしている(左下写真)。日本建築の大工棟梁によって、日本建築の中に新しい建築法が工夫研究され、製作されているのである。この建物は、現在は国の登録文化財である。
しかし1952年に完成した新築の天文台も、倉敷市街地の発展に伴い、天体観測が困難となり、本田氏は1981年私費で、中国地方準平原の一角、岡山県吉備中央町に観測所を作り通われていた。
一番最初の天文台は老朽化と、所有者の意向もあって、現在は倉敷市によって、市の施設へ移築が決まったと聞く。新たな場所でむしろその価値が充分に活用されることも重要とは思う。しかし最初の倉敷天文台は、倉敷のどの地にあったのか、今は人家に囲まれ天を仰ぐことさえ難しいようなところが、かつては人々の夢をつなぐところだったと言うことが、倉敷の歴史なのではなかろうか・・・。
現在考古館の川向こうにある、旧倉敷町役場の建物は、40年ばかりも前には、木造で老朽化も激しかった。汚いと言うことで、取り壊し別の新しい建物を建築する計画が、当時の伝統的美観地区審議会に出された。審議の会でも改築で町が綺麗になると賛成されたのである。たまたまその会議の帰りに、二人の委員さんが考古館に寄られ、「前の建物が綺麗になりますよ。」とのこと・・・・事情を聞いてびっくり・・・「伝統」と言う名のつく美観の筈・・・ 驚いた私どもは、いくら綺麗なものが出来ると言っても、それは現代のもの、倉敷という歴史的な建物群の中に、倉敷の歴史を示す町役場があってこそ、町並みの意味があるのでは、と申し上げた。
さすが当時の先生方、すぐ理解され早速に行動されて、建物は改修され今に残っている。現在は旧天文台と同様に、国の登録文化財となり、テレビドラマやコマーシャルの背景になり、倉敷を訪れる人の、カメラスポットともなっている。
後日考古館をおとずれた、審議会の会長先生、ご自分たちのことを「君子が豹変した。」といって笑われた。本当の君子だったと言うことか・・・
本田夫妻は、実氏が1913年2月26日、慧夫人は7月1日が誕生日と聞く。今年が共に生誕100年に当る。実氏は1990年逝去されたが、夫人はご健在。新彗星発見の場合は、発見者の名前が付く、小惑星発見の時には、発見者が自由に名前を付けられるとか。
いま天空では、本田夫妻の業績とロマンスを背負って、小惑星「ほんだみのる星」と、内助の功を称え、他の人からその名が贈られた「さとる星」がめぐっている。あの小さい小屋のような、天文台から生まれた物語、30~40年後の倉敷の人のほうが、もっとこの建物と本田夫妻を、誇りに思うかも・・・・ (この「よもやまばなし146」を記した2013/3/8には、既に最初の切妻屋根の天文台は解体されており、レンガの土台だけであった。)