明治10年代(1877~)といえば、まさに様々な制度の変化、新文化の急速な導入のなかで、江戸時代末には思いもかけなかった変化が、倉敷界隈にも広がっていたことだろう。とは言え、丁髷頭はまだ2割くらいは残っていた頃のようである。
倉敷やその周辺に、郵便や電信事業などが、ぼつぼつ普及しだすのも10年代の様だ。倉敷川に蒸気船が現れたのも、先回・先々回に話題とした、人造石などという言葉が通用しだすのも、其の頃の具体的な社会変化の表れの一つだろう。
明治10年といえば、倉敷考古館前の中橋が、木橋から石橋に架け替えられた年でもある。この橋についてはすでに6年近くも前になるが、この「よもやまばなし」で三回(28・29・30)にわたって取り上げているので、参考にしていただきたい。
だがこの橋の架け替えが、特に、文明開化の波と云うことではないと思う。しかし江戸時代以上に、この界隈で倉敷川水運の重要度が、ますます強くなってきたことでもあろう。蒸気船就航もその延長と思われる。
明治の新政権によって、殖産興業が奨励されたこの頃、各地で様々な新事業や会社が起こされている。禄を離れた旧士族による場合も多く、先回話題の吉備開墾社もその一つだった。
倉敷などでは、裕福な有志によって倉敷川の水運を目的に、偕力社が興された。この会社が倉敷川で、通船が不便な部分などを掘り浚え、蒸気船の運航を始めたのである。明治15(1882)年7月のことであった。
考古館前の中橋より、一つ下手の橋・前神橋のすぐ南の港から、岡山の三蟠港まで、蒸気船による1日1往復。途中で天城・彦崎などに寄港している。考古館の本館となっている倉の家主でもある小山家も、当時の株主の一人であったようだ。
左上の写真は、その時の引札(ひきふだ)(宣伝ビラ)で、写真下はその乗船券である。上等・中等などの等級分けもある。これらは当時、偕力社の有力な関係者であった倉敷の岡田家より、考古館に寄贈されたものである。
木版で刷られた引札の中には、帽子をかぶった男性が、酒を酌み交わすような姿や、着飾った島田髷の和服女性と男性、親子らしい乗船者の姿もあり、ゆったりした観光気分で、船旅をどうぞということなのか。
船は4トン、長さ約12m、外幅約2.3mばかりの木造船、大阪での造船である。料金は倉敷から三蟠までは20銭、彦崎から三蟠までが15銭。荷物送りも可能。その後、荷物送りをすることについて、大阪川口波止場もふくめ、倉敷、彦崎、藤戸、三蟠港で扱うことの宣伝文が、改めて新聞広告もされている。(『新修倉敷市史11 史料近代上』参照)。
当時の乗船代、倉敷から岡山の旭川河口にある三蟠港までが20銭、ということだが、これがその頃の人にとっては、どれくらいの価値だったのか、ちょっと現代と比較し難い。だがまったく大まかな話、明治20年頃の小学校教員の月給は8円程度、日雇い人夫は1日15銭程度らしい。
しかし一年も経たぬ、翌年明治16年5月には偕力社が解散し、明治17年には、倉敷丸は、大阪の人物に売り渡されている。途中では倉敷丸は小豆島の土庄へ回ることも計画されたようであるが、結局、運航は廃止されたようだ。明治の初年、さまざまな歴史がこの川筋にもあったのだろう。
明治時代に現在の倉敷市内で、運河や水路を利用した動力船は、倉敷丸だけではない。やや時代は下るが、明治29(1896)年より10年余の間、玉島の水路で運航されていた船もある。
玉島の町は、現在では倉敷市内だが、江戸時代以来、瀬戸内に面した著名な港町だった。新幹線の新倉敷駅は、かつての国鉄山陽線玉島駅だが、明治24(1891)年に西は笠岡まで開業した「山陽鉄道」は会社組織であった。現在JR倉敷駅から二つ西の駅である。この駅から玉島港である町までをつなぐ動力船があったのだ。
この船は「あさひ丸」という名前だったが、「ストンポッチ」の愛称で呼ばれていたようだ。ストン・ストンというエンジン音がしたからだろうか。地元でかつては村長さんもされた郷土史家、倉敷考古館の開館時から、長く評議員でもあった宗沢節雄氏の遺稿集『郷土風土記』に、この船の話がある。4kmばかりの距離ではなかろうか。10年余も続いたので、利用者も多かったのだろう。
倉敷川にしても、玉島の水路にしても、今残る姿からは、そこを定期に、煙を吐いたり、エンジン音を鳴らした船が走っていたなど、思いも浮かばない。百何十年か前に過ぎない時代のことなのだが・・・これから百何十年ばかり後の人は、同じ場所でどのような景色を眺めているのだろうか?・・・