(183) 芋岡山遺跡と花崗岩の風化土壌 - よもやまばなし

(183) 芋岡山遺跡と花崗岩の風化土壌
2014/10/1

 「ああ・・また今日も雨か」こうした思いが続いた日々だった。芋岡山遺跡の発掘でのこと。1966(昭和41)年2月末から3月にかけてである。すでに半世紀も昔・・・・

芋岡山遺跡出土の特殊器台片

 現在まで時々に、倉敷考古館が独自で調査した遺跡は、決して華々しく人々の注目を集めるような、著名遺跡ではなかったが、私たちがぜひ明らかにしたいと思った、いわば歴史的にも謎を持つとおもわれた遺跡だった。この遺跡もその一つ。

 当時より数年前、矢掛町教育委員会の依頼で、この遺跡近くで箱式石棺を調査した。その時地元の人から見せられた土器片が、左の写真に示した物と全く同様の物だった。「たが」を廻らせた筒状の土器片、しかも鋸歯文のような文様をつけている・・・これは埴輪そっくりなのだが、作りは華奢で、弥生の土器片並み・・・石棺に近い地点での採集と聞いたが、出土地はかなり離れた地点であった。

 その頃、私たちはこの種の土器に注目し、特殊器台や壷と呼んできていた事から、この遺跡の性格をぜひ明らかにしたい思いだったのだ。こうした土器が古墳時代への吉備地方の一つの動きを、示しているに違いないという思いでもあった。

 地元の笠原栄二氏は、すでに逝去されて久しいが、太平洋戦争中の頃、大原家に関係した仕事をされていた事もあった方だった。同氏の協力で、この遺跡は調査が行え、しかも同氏宅に宿泊までさせて頂いての調査であった。考古館はこうした方やそのご家族の好意に助けられてきた。

 冒頭の感懐は笠原氏宅での事。発掘がいわゆる菜種梅雨の時期だったこともあり、小雨が降ったり、止んだりの連日。遺跡地に近いお宅が宿泊地であったおかげで、晴れ間を見ての調査となったが、発掘地点は常に湿った状況だったと言える。

 当時の調査は、周辺地域の考古学関係者には知らせてはいても、特に見学者もなく、地元教育委員会の方が、訪ねられるくらいであった。この時、折りよく雨でなかったとき、何の道しるべもない山丘上の遺跡まで、訪ねてきたのが春成秀爾氏だった。

芋岡山遺跡の土壙墓群
このような土壙が27基あった

 今回改めて同氏に確かめたが、入学した当時は、岡山大学にまだ考古学教室のない時期、彼は史学科の学生で、卒業直前の4回生だったとのこと。考古学を志す者、遺跡地点、国土地理院の地図一枚が頼りで、多くの遺跡地を訪れるような者でないと、まずは失格といえる。同氏は高校生時代より、遺跡探訪は大変熱心だったと聞く。

 春成氏は考古学に興味ある人には説明するまでもないが、岡山大学の助手を経て、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に勤務、縄文・弥生・古墳時代にわたり優れた業績を残していることで知られる。既に退職、同博物館名誉教授(この博物館は、教育研究機関でもあり、研究者は教授・準教授等である)としてなお活躍中の人。

 芋岡山遺跡に彼が現れた時は、私たちは、直角に切りあう多くの土壙墓(写真参照)の発掘中だった。遺跡地の土壌は、花崗岩が風化して出来た山土であった。岡山南部での山丘上での遺跡では、この種の土壌が一般的なものである。この土は、一度掘った穴や溝が、掘り上げた土で埋まると、掘り跡の検出が大変難しい。この種の土壌の遺跡で、私たちも幾度も遺溝の検出に、手こずり、自分たち自身の誤認を訂正した覚えもある。

 その時は、春成君と呼んでいたような若い彼が、私たちが,かなりなスピードで、土壙の形に掘り進んでいるのを見て、そのように容易く形がわかって掘り上げられるものかどうか疑問を持って質問したのは、本当に遺跡を知った者といわねばならない。上から見たのでは土の面には、全く土壙掘り方の区別が見えないのだ。

 「ちょっと掘ってみては?」こちらの呼びかけに、応じて掘り出した彼は、すぐ納得した。一基の土壙を掘り上げて帰った。

 今回半世紀も昔の事、覚えてなくて当たり前と思いながら、それとなく確認したら、自分から、全く土の固さが違うところがあり、其れにそっていけば、自然に掘り跡が区別できた、と遠い昔の記憶を、鮮明に電話の向こうで話してくれた。

 これは連日の雨が、私たちに古代の掘り跡をプレゼントしてくれた事だった。雨により、1800~900年も昔でも、一度手の加えられた土層は、水分の吸収が異なっているということである。発掘の遅れをこれでカバーしてくれたともいえるが、今頃の発掘に較べると、時間を節約したあわただしいものだった。

 この遺跡の状況や評価は、『倉敷考古館研究集報3号』1967年3月や、このホームページの展示品紹介も参照されたい。ただ今回、このような古い発掘の思い出を記したのも,実は隣県の広島市内での豪雨による土石流の、悲惨な災害がきっかけである。自然の状況を変えることの恐ろしさを、小さい遺跡の中からでも、知られる事だったからである。

 自然の土層に、僅かに手を加えたにすぎない、はるか昔の土壙でも、埋土は雨を含むと柔らかくなっていた。似た土壌の多い広島の被災地では、長い年月に谷間は崩れ、また埋まったことだろう。谷口には、流土が堆積したことも多かったであろう。そうした地形の土地は、大雨の際、どのような変化を示すか、これが少々の人智ではとどめられないことを、知る人は知っていただろう。

 広島市の8月といえば6日の原爆、今年は20日にも大きな悲しみが加わった。原爆は全く戦争と言う人災が原因、今回も実は天災ではすまされない。どうか未来の人、原爆ともども、多くの事実を歴史だけの記録にしないで欲しい。

 終わりになったが、このささやかなホームページの思い出話へ、実名で参加してくださった春成氏に感謝したい。

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