(212) ブンガワン・ソロ - よもやまばなし

(212) ブンガワン・ソロ
2015/12/15

 ここにあげたタイトル、それはいったい何?・・・と思われるのが今や普通ではなかろうか。

 ただここ数回この欄で話題としてきた、ジャワ旅行での同行者は、「ブンガワン・ソロ」は懐かしい歌の題名、とすぐ分かる人々だった。

 太平洋戦争敗戦直後ともいえる頃から、しばらくはよく聞かれた歌であったからだ。つまりは平均年齢が70歳を超すような老人グループということである。

(左)ジャワ島のソロ川に架かる現代の道路橋

(右)ソロ川の岸に設置された水位観察場所

川下には、オランダ統治時代にかけられた鉄道橋が見え

 この歌、日本ではインドネシア民謡の1曲として、1948年歌詞が和訳され、松田とし・後にNHKの歌のおばさんとして親しまれた歌手が歌い、レコードとしても普及したものだったという。ただその時は作者不明とされていたが、ジャワ在住だった人により、ジャワ島ソロの出身者グサン・マルトハルトノ(1917-2010年)が、ソロ川のほとりで、川の流れの移り変わりに思いをはせながら、つくられたものだったことが判明したという。

 ジャワ在住と云えば、先の戦時中、日本軍がジャワを占拠していた時、軍隊の兵士として召集された多くの人々の中でも、ジャワに出兵した人も多かっただろう。身近では、親戚先にも一人いた。また倉敷周辺では、大変考古館に近い、倉敷河畔で育った画家故岡本肇氏。同氏は夫人共々折々に考古館を訪れては楽しい話をされていたが、肇氏も兵士としてジャワにいたとの話もあった。

 同氏の面白い話の中には、フランスなどに行った際、向こうの画家仲間に、「倉敷の大原美術館のすぐ近くが住所だ」と云ったら、日本人だから、あの有名な美術館のすぐへりが住所などと言って、法螺を吹いてる、と本気にされなかった、など・・・同氏が金光学園で絵の教鞭をとっていた頃は、毎年のように、学園から団体で学生の見学があった。

 ちょっと思いついた知人もジャワ島に、駐留していたのだが・・・、少々話が飛ぶが、倉敷で彗星発見者として著名な本田実先生(146話参照)はインドネシアに近いマレーシアに駐留だったとか、本田実氏と親交があった、倉敷市で薬剤師であり市会議員も務め、倉敷の文化連盟会長でもあった松枝喬氏もマレーシア、考古館に長く勤めてくれた女性のご主人は、ブーゲンビル島・・・こう言っているときりがない身近な人々が南の島々にもいた、しかも生きて帰られた方々だけでも・・・あの戦争がいかに国民の隅々にまで無縁でないことだったか・・・はなしが脱線したが・・・あのジャワ島にいた人々もあるいはあのメロディーを聴いていたかもしれない・・・

 筆者も、直ぐメロディーを思い出す一人ではある。しかしそのゆったりした美しいメロディーの発祥地が、ジャワ原人と同じだったとは!・・・歌曲には全く疎い上に、恥ずかしながらジャワ原人の里が、ソロ川流域と云う事も知らなかったのだ。

 その曲名のブンガワンは大河の意味で、歌は「ソロの大河」、その流れがこのメロディーを生んだと云う事だった。遥かに遠い遠い昔にも、この川は流れ、流れのほとりでは遠い遠い祖先も生きてきたのだ。良い水場に集まる、多くの動物こそが、彼らの生きる主な糧であった。

(左)ソロ川の広い岸辺で休日を憩う人々

(右)岸辺にうず高く積まれていた椰子の実の殻

すべて穴あきで、飲食済み。
雨期になると全て流出するという

 ソロ川はジャワ島最長の川で全長540km、島の東部から北半を潤している。しかし、洪水も多い川のようだ。ソロの地の「原人」を訪れたことで、この歌が話題となり、同行者の多くが、その大河の現場が見たいと希望したのである。

 現地ガイド氏は「大河と云いながらも決して大きな川ではない。」と念を押してから、博物館からの帰路の、幹線道路をわずかに外れただけでバスをすぐ止めた。道路からかなり下に、中級河川程度の川の流れが望めた。

 車を止めた地点がまさに川の土手というような場所だった。高さが7~8mもあっただろうか、その下の川辺にはかなりな平地が広がっていて、幾組もの家族連れらしいグループがいた。シートなど広げて座り込んだ人々もいた。当日は日曜日、ここには特に何もなかったが、人々が憩う場所でもあるようだ。川の水はまだ一段低い所を流れていた。

 「現在は乾季で水の流れはこのようなものだが、雨季になるとこの一帯は全て水没し、土手いっぱいに水が流れます。そうなれば大河ですが・・・あそこに流れの深さを測るところがあります。水の溢れるのを監視するためです。・・川上のあの橋が先ほどの道路に架かる橋・・・川下に見えるのはオランダが作った鉄橋です・・・」ガイド氏の説明だった。

 同行の一人が、少々関係のない質問をした。「このあたりの街中は、ゴミも無くて綺麗だが、ゴミ処理はどうしているのですか?」「毎日ぐらいゴミを集めてますよ。」ガイド氏の言。「集めたゴミはどうするのですか?」いつも直ぐに答えてくれるガイド氏、ちょっと躊躇したようだったが・・・「この川に捨てます・・雨季になったら大量の水が流れ、すべて海に流れます。」

 誰もそこからは何も言わなかった。日本国でも、ついこの間まで同じだったことを知る人たちである。今でも、隠れた場所でいかに不法投棄が多いか、みんなよく知っている。ただここでは、その行為は日常で普通の事の様だ。川原を見渡すとゴミが集中するところもある。ヤシの実の穴の開いた殻の山も見える。 ゴミのことを質問した女性は、目ざとくゴミの集積を見つけていたのかも知れない。この地のゴミも、海の有機分を増やす森林と同じ性格の内は許されても、今の文明はそれを許さない。すでにプラスチックゴミの混ざるものに代わりつつあるようだ・・・

 ブンガワン・ソロの歌詞(緒園涼子(りょうし)訳) 「ブンガワン・ソロ 果てしなき 清き流れに・・・・聖なる河よ わが心の母 祈りの歌のせ 流れ絶えず ・・・・」  このような歌にあわせて、川の土手近くに積まれていたヤシの実の殻をおもうと、思わず島崎藤村の「椰子の実」の歌が浮かぶ・・

 「名も知らぬ遠き島より 流れよる椰子の実一つ ふるさとの岸辺を離れ・・・・・いずれの日にか国に帰らん」

 現在のソロ川内の椰子の実には、すべて飲食料となって穴が開いていたが、藤村のヤシの実には穴は無いだろう、など散文的なことを思いながらも、東北震災で流出し、太平洋のかなたの国に流れ着いた多くの品々の事をも、思い出していた。

 なにもかも流れ去り過去になっていくのだが。

 「倉敷考古館よもやまばなし」も212回、あまりにも長くなりました。今年の終わりの今回で、打ち切らしていただきます。もし時々にでもご覧いただいていた方々がおられましたら、心より御礼申し上げます。

 また今後しばらく、ホームページの形が変わらず、この欄が残っておりましたら、ここで記載してきました、考古学の資料関係を多少ともご利用いただき、考古館へもお運びいただければ幸いです。

担当 間壁忠彦・間壁葭子

(なお今後この欄は、考古館のホームページをご覧いただいている方々の、自由な発言・意見交換の場として利用していただけないかと考えております。ただ何分にも当館の実態は、僅か2-3人の弱小スタッフで全館の運営に当たっていますので、ご利用にお手数がかかるかもしれません。詳細は、来年1月1日付けこの欄連絡をご覧いただき、皆さまのご協力を心よりお願いする次第であります。)

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