(12) 注意力 - よもやまばなし

(12) 注意力
2007/11/21

 先回、私どもが身に付けなければなさない「注意力」を話題にしたが、今回もその続き。二つの絵や映像を見て、互いの違いや共通点を探したり、一つの画面中で不合理な点を探すような、注意力を必要とするクイズは、しばしば見かけるものである。一寸した暇にこうしたクイズにはまって、答え探しに躍起になることもある。ところで今回の写真では、3点の土器を示したが、この3点には一つの共通点がある。さて何だろう?

〔黒宮大塚墳頂の土器〕
高坏と台付小坩

 この土器を出土した遺跡は、これも当館の主な調査で上げている、黒宮大塚古墳である。ただ最初にこの古墳の頂上で拾ったといって、写真と同時期の土器のかけらを見せられたとき、これは弥生時代後期の土器に違いないと思った。当時この古墳は外形などから古墳時代でも中期の前方後円墳とされていたので、この古墳に伴う土器とは思えなかった。しかし採集状況を聞くと、古墳の封土中である。この土器が本当にこの「大塚」と呼ばれてきている古墳に伴うのか、それとも、古墳を築造した地点が弥生時代の遺跡だったため、封土に土器が混じったのか、この古墳調査は、この疑問を解くためにはじめたのである。

 調査を始めてすぐ現れたのが、写真に示した土器を含む100個体近い土器が、幅0.5m、長さ2mばかりの溝のような中に、ぎっしりと詰まって置かれたような状態だった。古墳に供えられた物に違いない、調査で全長60mの前方後方墳と判明したこの古墳に、である。つまりは弥生時代の終わり頃と考えていた時期に、外形からはずっと古墳だといわれてきた、大形の前方後方墳が、すでに存在していたことの証明であった。

 しかもこの土器群の下からは、天井が木蓋だったと思われる竪穴式石室が発見された。埋葬の上に、多くの土器が置かれていたことは、葬送に参加した人々が、一人ひとり捧げたのだろうか。しかも不思議なことに、こうした日常にも使用されている高坏や台付坩には、すべてに小孔が開けられていた。共通点はこの後から特別に開けた「小孔」であった。これらもよく注意しないと破片ばかりだと見落し、復元するとき壊れた孔と思い充填してしまう恐れがある。

 墓に供えるものは、この世では再び使用しない、わざわざ孔を開けることは、この世とあの世との区別を明確に意識したといえる。葬送の形式が出来上がりつつあったのだ。小さい穴一つだが、注意して遺物を観察すれば、文字はなくとも、当時の人々の意識、古墳が出現するときの姿をも知ることが出来る。クイズもただ答えを求めるだけでは、すぐ飽きが来る。そこに意味があった時、はじめて本当の楽しさがある。

倉敷考古館日記だより
1970(昭和50)年2月16日 日 晴

 「・・真備町のK君、黒宮大塚古墳で採集したといって、弥生後期末と思われる小形の長頚坩の破片を持ってくる、図を書く。・・」

 (誰もが見過ごす小さい土器のかけらを、発見して考古館に持ってきたK君は、当時中学生だった。彼の注意力が大きな発見となったのである。彼はすでに三児の父となっているが、いまも考古館をよく訪ねてくれる。)

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