(108) 吉備真備のふるさと挿話-1-富比賣買地券 - よもやまばなし

(108) 吉備真備のふるさと挿話-1-富比賣買地券
2011/7/15

 わが国の古代史に多少とも興味を持っておられる方に、吉備真備を紹介するのは、失礼なこと、と言えるくらい、奈良朝において彼は著名人だろう。ともかく吉備と名乗るからには、今の岡山県出身者。当時の都奈良からみれば、全くの田舎氏族出身者でありながら右大臣にまでなった人物。

岩波書店『続日本紀四』(新日本古典文学大系)より吉備真備薨伝部分

 奈良時代といえば、まずは中央門閥の子弟で無いと、高位高官は望めないのが実態である。その中で唐に長く留学し、帰れば皇太子、後に2度に亘って皇位に付き、孝謙・称徳天皇となった女帝の先生ともなる・・・

 彼の業績をここでいちいち述べなくとも、そうしたことは常識で知っているとおっしゃる方も、彼の存在が、先回話題とした墓地買地券と、妙なことで関係あることを知る人はほとんど無いのでは。

 関係というのは、この吉備真備祖母の骨蔵器が、買地券出土地と伝えられている、倉敷市真備町尾崎ときわめて近いところから出土していたことである。骨蔵器の出土地は、小田郡矢掛町三成で、郡・町名は別であっても、両者の間は僅か4kmばかりなのである。地続きの隣地である。

 骨蔵器の発見は、江戸時代の元禄12(1699)年であったが、それよりほぼ120年ばかりも後の、文政年間に墓地買地券は出土したという。この頃は地方においても、文化・教養度が高くなってきている時期である。地方の文人たちの間では、吉備真備関係者の骨蔵器は、すでに周知されており、多くの好事家の注目も集めた頃である。

 こうした認識は明治時代以後、中央の学者の間での常識であったから、簡単な野焼きででも製作できる、天平宝字7年銘までもった墓地買地券などという奇妙なものは、著名な遺物のある地方だけに、むしろその遺物に触発されて、地元で偽造されたのでは、という懸念が強かったのであろう。

 一度中央の著名学者が、「偽物では」としたことにより、その後、他の著名学者も疑いを挟まない。わが国では墓地買地券は類例がない、内容に不明部分が有る、ということも加わって、無視される原因にもなった。しかしその背景には、近接地に吉備真備祖母の骨蔵器が出土していたことが、買地券偽造視に影響していたことは、否めない。骨蔵器のほうは迷惑なことだろうが、ともかくこれは著名人の故郷でのマイナス影響力ともいえよう。

 しかし墓地買地券というような、わが国では中国文化導入の中心地の、奈良に限らず近畿地方一帯からも、まだ発見されてない遺物、九州の太宰府の宮の本遺跡から、発掘調査で、同類のものが発見されたことで、やっと最終的に認められた、吉備真備の故郷のこの買地券は、実際に奈良時代には、最も彼と関係が有ったものではないだろうか。

 5世紀には、近畿地方と競り合うような巨大古墳を築造していた吉備地方ではあるが、8世紀には、都にとっては一地方に過ぎない。こうした田舎に、中国の習慣が伝えられているのである。買地券に現れた人名は、「矢田部」であり「白髪部」であった。これは渡来人系の名前ではない。地元民の中でこうした中国の思想が知られ、しかも生活に取り入れられているということは、買地券を作った周辺の人物が、中国に渡っていた可能性もあることだろう。

 吉備真備、本来は下道真備だが、中国留学が長く、その後も遣唐副使として、もう一度渡唐している。彼の一家は父の代から奈良で官僚として生活し、真備の母は、奈良の出身者だったが、父は故郷と無縁でなかったことは、祖母の骨蔵器が、かつての父の故郷から出土したことでも分かる。

吉備真備の祖母骨臓器銘部分拓

 この骨蔵器には、当時としては最新の知識が盛り込まれていたのである。蓋付銅製骨蔵器の蓋に、二重の円圏に掘り込まれた銘文は、著名なものだがここに全文挙げておこう。

 内圏「銘 下道圀勝弟圀依朝臣右二人母夫人之骨蔵器故知後人明不可移破」

 外圏「以和銅元年歳次戊申十一月廿七日己酉成」

 この中で下道圀勝が真備の父であることから、この骨蔵器を真備の祖母のものと呼んできたが、この銘文中に真備に名があったわけではない。この時はまだ13~14才の少年である。真備の父圀勝の母が、どこで生活していたかは不明だが、その母の骨蔵器は奈良の都で作られたものであろう。

 この骨蔵器の銘文(左上拓本の写真参考)の中に見られる圀勝・圀依の圀の字は、本来は國であるが、実は中国の唐代に女帝として著名な則天武后が、作字使用させた則天文字である。中国で作字されて僅か20年足らずで、真備の周辺では用いられているほど、かれの一家は、中国の文化に近かったといえよう。

 買地券の富さんが死亡した時は、80余才まで生きた吉備真備は67~8才の頃である。富比売の生年も死亡年齢も全く分からないが、真備とほぼ同時代を生きた人であっても、不思議はない。真備が故郷に帰ることがなかったとしても、逆に父の出身地から、都に送られ、真備一族の身近に仕える女性だった可能性も有るのでは・・・・

 何一つ証拠はないが、真備の故郷で珍しい中国の習俗を見ることで、ちょっと勝手な想像を楽しむことも出来るだろう。

 「富さん、あんたまきび(真備)さんの顔知ってるの?」・・・「え!知ってるどころかって!・・ああそういう関係・・・ご主人家族並の墓地を作るのに良い方法は、中国通のまきびさんに聞いたのだとは・・・墓地買地券なんて・・思いつかなかったな」「それでも結構経費はかかったのでは?」

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