(99) 備前の大甕をあつらえた人か? - よもやまばなし

(99) 備前の大甕をあつらえた人か?
2011/3/1

 左の人物は、現代漫画の主人公でも通用しそう・・・・2011年の今年から、正確に言えば659年前の人物。姿かたちからいえば僧侶。坊主頭に大きな鼻、まるでいま喋っているかのような、口の動きを示す唇の描き方、無駄の無い僅かな線描きながら、生き生きと人物を表している。

和歌山県長寿禅寺出土の備前大甕に描かれた、絵画や、文字・年号など

 左の人物は、現代漫画の主人公でも通用しそう・・・・2011年の今年から、正確に言えば659年前の人物。姿かたちからいえば僧侶。坊主頭に大きな鼻、まるでいま喋っているかのような、口の動きを示す唇の描き方、無駄の無い僅かな線描きながら、生き生きと人物を表している。

 魚も単純な書き方ながら、周辺に動きのある水流が表現されており、生きて泳ぐ大きな鯛でも意図したのだろうか。いずれにしても書き手は、周辺も本人も意識したかどうかは別として、絵の巧みな人物だったと言える。さしずめ現代に生きていたら、「ゲゲゲの下」くらいには成っていたのでは・・・・

 この絵は、備前焼大甕の胴上半部に、焼成以前に線刻されていたものである。同様の位置に、下の写真のように「備前国住?人」「香登御庄・・・」「暦應五年・・・」、あるいはかな書きの「あつらう也」等の文字や、菊花や巴のような模様も描かれていた。備前国や暦應五年の年号などは、もう一箇所にも記されていたのである。

 しかし残念ながら、互いの模様や文字の位置関係は充分には分からなかった。というのもこの大甕は、ばらばらの破片になっていたのである。だが破片から、全体の形は推測可能なもので、高さは約65cm、口径は38cmばかり、玉ぶちの口縁部、肩から胴上部が丸く横に張った、この頃の甕と予想していた、典型的な備前大甕の形だった。

 実はこの甕は、和歌山県の南部白浜町でも南端の、旧日置川町の長寿(禅)寺の裏山墓地からの出土品。拝見に行ったときには、まだ破片部分が墓地内に残されていたのである。

 それは既に35年前、1975年のことである。和歌山県在住で、医師であり考古学の研究者でもあった、既に故人となられてから久しい、巽三郎氏の書簡で存在を知った資料であった。

 たまたま考古館ではその頃までに、備前焼の研究を手がけてきたこともあり、当時は日本全国といっても大げさでないくらい、各地の遺跡出土の備前焼らしい焼き物についての、問い合わせや、連絡、時には発掘品持参で訪問される場合も多かった。

 こうした中で、巽氏からの書簡で「暦應五年(1342)」銘の存在を知らされた。紀州へは中世の備前焼がずいぶんと運ばれていたことが、分かってきた頃である。これは備前焼の形態変化を基にして組み立てていた編年に、実年代を与えるきわめて稀な資料だった。

 早速に巽氏に無理を願って、現地へ実物拝見に伺ったのである。その経緯は、当時よりは10年近くも後のことになったが、『倉敷考古館研究集報18号』(1984・4)に掲載しているので、興味のある方は参照いただきたい。

 ともかくも、14世紀の半ばよりも古い、我国で南北朝が始まって間もない「暦應五年」(北朝元号)は、備前焼で確かな年銘のある遺品では、最古だったのである。しかも当時すでに備前焼では「あつらう」品、つまり注文品を作っていたことになる。

 備前焼には製作年銘や文字を刻記した作品が、他の同期の窯より多い傾向があった。先の(95)話でも話題とした貮合瓶も、その走りともいえよう。しかしそれも決して多いものではない。

 そうした中で器面に「誂え」と記すものもあることは、以前より知られていた。しかしそれはいわゆる安土・桃山時代であって、せいぜい16世紀も後半である。和歌山県出土の資料は、200年も古い時代の話である。その頃こそ、まさに備前焼が各地に大量に、版図をひろげだす時期であった。この時には既に、特注品を作っていたのである。

 はるばる和歌山県の南端近くまで運ばれていた甕に描かれていた僧侶は、いったい誰だったのだろうか。他の文字のうち、備前国香登(かがと)は今に残る地名であり、中世以来備前焼産地として知られるところである。

 備前焼の歴史を多少とも知る人にとっては、周知されることだが、やはり南北朝の時代、暦應5年よりは30年ばかりは後の1371年、九州探題となって都から任地に向かった、今川貞世の道中記『道ゆきぶり』のなかで、「香登はたまだれのこがめ」を作る、などとも記されている。

 「香登御庄」の御庄は、この地が12世紀頃から、皇室関係の荘園になっているからであろう。これに続く次の文字は「住人」と見るのが順当だと思うが、「代人」「氏人」「仕人」などと読めなくも無い・・これらの言い方が当時使われていたかどうか・・・しかも描いた対象の人物を指しているのか、描いた本人なのか、甕の製作者なのか・・・何とも定められない。

 いずれにしても、この銘文や絵は、判じ物のようなことだが、ともかくこの甕が紀州へ運ばれたとき、この「あつらえ品」が、あつらえ主によくわかる目印ではあっただろう。

 この甕は、遺体を入れて墓地に埋葬されたものと見てよいが、当時棺用にするために、わざわざ紀州から備前焼を注文したとは思えない。当時の備前焼は、硬くて強くて、容器として使用することにこそ意味のあった焼き物である。この甕に埋葬された人物は、誂え主にこだわりが有って、死後その甕に埋葬されたか、あるいは長く使用された後、幾世代も後の人物だっても不思議は無い。

 絵に描かれたお坊さん、あなたが誰であっても、600年以上も後にお会いできて嬉しかった。ただ最初に会ってから35年過ぎた今、あなたが掘り出された長寿(禅)寺は、無住の寺とか、あなたが今は、和歌山県立博物館に納まっていることを知るのに、少々手間がかかった・・  ・・・ずいぶんご無沙汰で失礼!!

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