(110) 吉備真備のふるさと挿話-3-真備町内の火葬墓 - よもやまばなし

(110) 吉備真備のふるさと挿話-3-真備町内の火葬墓
2011/8/15

 吉備真備のふるさとと言いながら、火葬墓の話ばかりかと言われそうであるが、残念ながら当地方では、1300年も昔の奈良時代のこととなると、正確に残るものは、土中の遺跡・遺物のみ。しかもその中では、思わぬ山中などから偶然の機会に発見される「墓」が目に付きやすい。それが火葬墓。

倉敷市真備町出土の奈良時代火葬骨蔵器

吉備真備祖母骨蔵器と富比賣買地券出土地の間より出土

 墓としては土葬で、多くの労力と経費の必要な、権力の象徴といわれる大形の『古墳』を止めて、天皇の墓までもが火葬を採用し簡略なものになるのは、8世紀の初め、いわば奈良時代から。これはむしろ、当時の最先端の文化・教養の表現、これこそが新しい文化を担う、奈良の貴族や高級官人の新しいステータスの象徴・・・そのため決して数多いものではない、というのが古代の火葬墓に対する、常識だったのである。

 ということは、古代の火葬墓は近畿地方が中心で、地方の田舎まで新文化が行き渡るまでには、時間もかかり、地方では奈良時代火葬墓などめったに無いもの・・・ということも、考古学や古代史を勉強するものの間で、常識化していたといえる。いかなる文化も常に、中央政権の周辺にあるという考えは、案外現代までも続いているのでは・・・・

 しかしそのような事は机上で考えた歴史に過ぎなかった、間違っているということを、この「よもやまばなし」でも、21・51・52・77話の中で、吉備地方に多い陶棺を話題にしながら、繰り返して述べてきたことだった。

 吉備地方で火葬が始まったのは、奈良の都に負けない古さであり、数も多い。この吉備地方では、古墳埋葬に続く形で、火葬骨が古墳に埋葬された例が多かった。その後も、火葬墓が多い地域であるが、その中でも倉敷市に近年合併された、真備町やその周辺には、集中しているようである。その地は周知されるように、古くは下道郡と呼ばれていた一角である。

 既に30年も昔のことだが、私どもは『倉敷考古館研究集報 16号』(1981年6月)の中で、岡山県下の、奈良・平安期の墳墓を集成したことがある。その時には94遺跡で個数は115件ばかりだったが、その中で真備町から真備祖母の墓も含めた一帯から・・・といっても県下全体から見れば、極めて限られた範囲ではあるが、ここから全体の1割にも当たる数の火葬墓が出土していた。その後の出土例も決して多くはなく、この傾向が大きく変わることはないだろう。

 今回写真に示したいわゆる薬壷形といわれる壷は、奈良時代の火葬骨蔵器の定番とも言える器形の容器である。薬壷といわれるのは正倉院中のこの器形の壷には、薬が入れられていたことからの呼び名であるが、墳墓から出土したら、火葬骨が入っているのが普通である。

 ただ当時の火葬骨蔵器には、定まった形があったとは思えないくらい、変化に富んだ形のものが用いられているので、この壷も本来は一般の容器であって、薬なども良く入れられるものだったのであろう。この頃には、手近のものを骨蔵器に転用したものも少なくない。

 ともかくこの火葬骨蔵器は、先回来問題にしてきた、吉備真備祖母骨蔵器やその他の骨蔵器が出土した地点と、墓地買地券が出土した地点の間、倉敷市真備町妹から出土した。その位置は、先の両遺跡が東西に位置する中で、その間は丁度4kmばかりだが、これらの間にあって、両者の真ん中よりやや東よりで、買地券出土地からすぐ西の山丘を隔てた谷筋にある、内山池に面した山腹出土である。

 古く開墾されたときの出土で、開墾者の話からは、かつては10個体ばかりも出土したとも思われ、板石で囲う物もあったようだ。火葬骨が確認されたものもあったようである。

 いま残るものは、山腹に放置された破片などの採集品であるが、それだけでも少なくとも5点は存在している。器形がほぼ復原できたもの2点が、最初に写真で示したもの。現在考古館で展示している。

 これらの破片を折々に拾い集めてくれた人物は、「このよもやまばなし」でもすでに古文書になりそうな、4年ばかりも昔の話題であるが、12回目「注意力」の日記抄中にK君として登場した人物である。これらは全て、彼の身近な故郷でのこと。

 こうした地点の墓地群の被葬者も、吉備氏(下道氏)の墓地との近さ、南面した山腹にある似た立地などから見ても、互いが無縁の人たちだったとも思えない。白鳳時代には建立されていた寺、現在の吉備寺の所在地でもあるが、そこはこの一帯の中心域・・・・これらの火葬墓群所在地の方が、真備祖母墓などより、その中心域により近いのである。

 こちらの火葬墓群の方が、案外本来は土着の本家筋の人達だったかも・・・・・そのあたり一帯の山地はこうした下道氏の墓域だったのかも・・・・しかし奈良時代も終わり近くなっていた頃には、新旧勢力が入れ替わることも多かったのでは・・・・このような時期、何らかの事情で、真備を生んだ名門下道氏の墓域に葬られることになった、矢田部の関係者であった富さん、下道氏の墓地を使用していた人達に対し、墓地を認めてもらったのが買地券だったのかも・・・・彼女の方が新文化の担い手ということの、デモンストレーションだったのかも知れないが・・・・

 吉備真備ただ一人の名前で、多くの人々の残したそれぞれに重い歴史の跡に、勝手な想像を加えている・・・・・・・・・・・・罰のあたらない間に退散・・・・

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