(50) 絵はがき輪台と考古館日記 - よもやまばなし

(50) 絵はがき輪台と考古館日記
2009/2/15

 左の写真風景は、当考古館の入り口からすぐ見える、販売用の絵はがき入れのあたり。これを見て「おや?」と思ったり、「どこかで見たような」と思う人は、誰もいないと思う。このような絵葉書入れなど、似たようなものもあり、ただの入れ物に過ぎないのだから、意識する方がおかしい事かもしれない。

考古館受付の近くに立つ 絵はがき入れの輪台

 この絵はがき入れは、8角の面を作った木製角柱形で、各面が4段に区切られ、絵はがきが入る大きさの区画が32作られている。まるい台脚上に据えられており、手で左右に動かすと、自由に回転する。回り過ぎることも無く、しかもスムーズな動きは、この台を使い出して以来変わらない。回転軸には、金属のベアリングが使用されているようである。古びてはいるが、考古館の道具としては、不釣合いと言いえるほど作りの立派なものである。

 実はこの絵はがき入れの輪台は、大原美術館からのお下がりである。

 もしこれを見て、同じものとは思わないまでも、大原美術館の絵はがき売り場を思い浮かべる人がいたら、どれほど大原美術館の絵を愛し、美術館へ通った人であろうか。そうして既に高年齢の方である筈。

 まもなく還暦を迎える考古館は、開館時がまだ戦後の経済的動乱期の内であり、やっと財団法人として出発したとはいえ、インフレをまともに被る時期だった。ともかくも公からの経済的援助は、今に至るまで全く無い中で、単なる展示だけでなく、調査・研究も普及活動も博物館としての仕事は、続けてきたと自負している。しかし設備などには手が回らず、他所からの好意による中古品も多い。大体今では姿を見ることも無いような、重い大形金庫もクラボウからのお下がり、中に入っている僅かなお金は、恐縮してますます小さくなっているだろう。

 ところで「よもやまばなし」を始めた際、この絵はがき入れもその由来を明かすべく、早速に候補としていたが、何時美術館から考古館へ、いただいたものか、日記を繰ってもすぐに出てこなかった。そのうち見つかるだろうと、日記を繰るたびに気にしていたが見つからない。

 「よもやまばなし」も50回目を数えるし、ともかくあれこれと記憶をたどったあげく、大原美術館が、藤田館長と笠原部長の時代、お二人が来館した時にいただいた記憶と、一方で、美術館が入館者も多くなった時、入り口受付を改装、絵はがき売り場も変更し、この絵はがき入れが不要となった時、と言う条件に合う頃の、考古館日記の中で、藤田・笠原両氏が一緒に考古館に来られた日を探した。

 日記は書いた人物で取り上げる話題に差は出てくるが、考古館日記で必ず記述することの一つに、来訪者名がある。それだけは誰が担当で書いても変わらない。

 そこで先の条件に合う頃で、毎日と言うくらい考古館の前を通って、昼食にうどん屋へ通っておられたが、考古館へは立ち寄らなかった笠原氏と、何かの通りがけにはちょっと立ち寄り、声をかけておられたのが藤田館長だったが、この二人が揃って来られているのはほとんどなく、目に付いたのは1971(昭和46)年7月18日だけだった。

 絵はがき入れの台を貰ったのが、この日だったという確証は何も無い。40年近く昔の話である。その日の日記には、前日に激しい雷雨があったようで、初代の大原美術館長で、この頃も考古館長であった武内潔真氏の自宅付近、この18日の午前中電話が不通になっていた、と書かれていた。

 日記の前後を繰って見ると、慌しかった毎日が蘇る。数日前からの、7月14―18日の間だけでも、広島大学のイラン調査隊への参加準備で、広島へ行ったり、一方では考古館研究集報7号・『里木貝塚』の報告書作成の追い込み、完全原稿を印刷屋へ渡している。調査では、王墓山一帯の開発に関する問題の交渉があったり、大原美術館では、中国関係資料の分類をしたり・・・しかも翌19日の月曜日、後に考古館にも勤めたことのある、藤田憲司氏の結婚式だった。

 また前年の1970年11月に、大原美術館での名画盗難事件が起こり、考古館でも、警備関係の工事がおこなわれ、その調整も忙しい頃、警報機械の誤報続きで、毎度走らされた。盗難事件の捜査はまだまだ続いていたが、捜査の専従で、この「よもやまばなし」(11)で取り上げた刑事さんが、そろそろ調べるところも少なくなり、顔なじみになった考古館へは、まるで出勤簿があるように、ほとんど毎日、一寸は顔をのぞけている。学生さんの来訪も多いが、大学紛争もまだ続いていた。そのほかにも来客の多いこと・・・・

 絵はがきの輪台もこうした時に考古館にやって来たのか?・・この台は大原美術館で何時作られたものか、前武内館長に聞いておけばよかった。戦前からあったことは間違いないだろう。考古館の歴史よりはるかに古くから、多くの人の手で回されてきたはずである。

 文字で書かれてなくとも、物は確かに存在し残る。この絵はがき輪台は、仏教寺院で時に見る「摩尼車」に似ている。摩尼車は、一回転さすだけで、経典全てを読んだことになる、珠宝の輪台らしい。美術館や考古館との長い歴史を背負い、今も健在のこの絵はがき輪台、物が歴史を語る考古館に相応しい。これを回す人に、美術館や考古館だけでなく、倉敷の歴史までも伝えているのかもしれない。珠宝の輪台として大切にしたい。

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