(92) 五倫訓 - よもやまばなし

(92) 五倫訓
2010/11/15

 五倫訓』本の名前である。考古学にはなんとも縁遠い名前に思われるだろう。恥ずかしながらと言うべきか、実は私どもも始めてお目にかかったというのが、本当であった。

『礼学大全五倫訓』の版木の一枚
五と六丁部分。 裏面は七・八丁。
写真右方の短冊形彫り取り部分は、校正の跡

 『五倫訓』本の名前である。考古学にはなんとも縁遠い名前に思われるだろう。恥ずかしながらと言うべきか、実は私どもも始めてお目にかかったというのが、本当であった。

 半年ばかりも前のことだが、考古館を訪れた一人の夫人から突然に頂いたものがある。

 これは30年以上も前、主人がこちらに持ってきたものです。その時、不用のものなら考古館に頂ければ、ということだったが、そのような価値あるものならと惜しくなって持ち帰って、額のようにして掛けていたのですが、主人も亡くなり、家では不用ですので、考古館のほうで、自由にしてください。」と言うことで差し出されたものだった。

 長さ74cm、幅21cmばかりの一枚の板で、あちこちに虫食い痕が目立つものだったが、表裏にそれぞれ二つの枠が彫りだされ、その中には裏文字が全面に陽刻されている、版本の版木だったのである。

 申し訳ないことだが、以前考古館にこの版木が持ち込まれた事実は、誰も記憶になかったので、その旨はお伝えしたが、先方は、ご主人から聞かされておられたので、考古館でご自由にということだったので、いただいたものである。

 倉敷市内の中庄在住の方で、江戸時代には庄屋なども勤められた家とうかがった。ただその品がなぜ家にあったのかは全く分からないが、今から40年ばかり前に家を改築した時、倉からでてきたものとのことだった。しかし他に同種のものが有ったか無かったかなど、その他のことは今では全く分からないとのことだった。

 主には土中出土の遺物や、遺跡・遺溝相手の仕事が本職の私どもも、つい先般この「よもやまばなし85」で話題にしたような、仏教経典に振り回されたこともあったが、これはどうみても、江戸時代の文字の版木であり、しかも普通に見たのでは裏字である。さっさと読める相手ではない。専門外の世界である。

 しかし博物館の仕事は、いわば雑学、各種の特別展をすれば、対象によっては、専門以外のものもおおい。専門外などとはいっておられない、自分で勉強するのが仕事である。

 考古学の世界でも何かが専門ですといって、遺跡調査中などで、知らないことにぶつかったとき、わたしは専門外ですでは通らない。どのようなことにでも対応できる訓練、つまるところ、何にでも興味を持って調べることの訓練だとおもってきた。

 長年のこうした習性からというか、文字を読むために簡単に拓本を取ったりもしたが、当館での保管展示も出来ないので、江戸時代における倉敷の民間教育にも関わるに違いないとの思いもあり、今後は倉敷市の所蔵として、保管し活用して頂く事となった。

 しかしとりあえず、当館に頂いたご縁もあり、実態の紹介までに・・・・

上は、版木丁付七の最後の2行 左行の下方に「農工商への教なり」とある

 版本の場合、一枚の紙に刷られたものを一丁とし、これを半折している。今風に言えば2ページとなる。この版木には片面にそれぞれ二丁分が彫られていたということで、表裏で8ページ分ということだが、よく見ると一丁の真ん中に丁付がある。それが五~八までなので、本の途中部分の版木ということだった。

 上の写真はその五・六丁部分に当たる。この面には、版木の一部文字を、数字分短冊形に彫り取った部分がある。おそらくここに埋め木をして、文字の校正をしたのであろう。版木の両面には、刷った墨が濃く残っている。

 丁付の上の裏文字が、『五倫訓』だとやっと分かった。この『五倫訓』が江戸時代後半、民衆教育の一端を示す『礼学大全五倫訓』の部分だということに、たどり着くには、いま少し時間がかかったし、倉敷市史編纂に携わった方々のご教示も得た。

 ところで江戸時代にもいろいろの学問があるが、江戸も後半の頃に興った心学は、民間に分かりよい表現で、当時の体制下での庶民である農・工・商に、社会倫理を説いたもののようである。各地で今風に言えば講演会などが、開催されていたらしい。

 倉敷村でも、江戸時代末近い19世紀には、一般の村民達によって教育機関の設置が願い出られている。『倉敷市史4近世(下)』にはそうした、当時の教育に関した動きも詳しく記載されているので、参照にされたい。こうした世情の中で心学の講習もおこなわれたようである。

 こうしたことが契機ともなって、天保5(1834)年には代官所関係者の指示で、倉敷にも教育の場、明倫館が代官所内に開設された。傍舎の自省舎は初心者用だったという。

 この明倫館の最初の教授は西阿知出身の鷦鷯(ささき)春斎という人物だったという。問題の『五倫訓』には「礼学童蒙必用」という付録があり、これの校正を行っているのが、この鷦鷯春斎であった。

 『五倫訓』の著者は大館天涯、この書は心学そのものではなく、天涯の礼学とされるが、心学と同様、平易で民衆教育に適するものだったようだ。鷦鷯春斎が明倫館の教授のとき、民衆教育の拠りどころとして、この天涯が,明倫館か自省舎で講義をしていたようである。これがあるいは教科書だったともいえる五倫訓版本の版木が、倉敷の周辺に存在していた原因かもしれない。

 版木などは移動するものだが、偶然にも倉敷にあったこの版木、明倫館設置頃の動きと無縁ではないように思える。一般教育の基本がこうしたところから芽生えていたのだろう。

 そのままでは分かり難い版木の文字なので、ごく一部分拓本を反転したものを、右に示した。そこにあるように、この教えは「農工商への教なり」と明言している。

 付録の「童蒙必用」には、具体的に2歳から10歳までの子供の養育法が、朝の口すすぎから洗顔・手洗い、3~4才までの家族や社会に対する儀礼教育まで、こと細かく記されているようだ。

 8歳になったら算盤をぜひ習わせよ、農工商いずれもこれが出来なければ、1日も立ち行かない、とする。まさに農工商への教えであったようだ。

 ところで、先の「よもやまばなし87」で話題にした、代官所襲撃事件では、代官所建物が焼失後は、被災を免れた明倫館が、仮の代官所となったという。現在のアイビースクエアー内の愛美工房からその南・東一帯の辺りか・・・・

 明治になると、明倫館は東町の玉泉寺に移り、多少の曲折はあるが、倉敷村の明倫小学校となっていった。

 明治維新前後頃の倉敷の人々は、こうした教育で育った人達だったのだ。隔世の感とすべきか、身近とすべきか・・・・

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