(126)  吉備の国虬(みずち)の里幻想 - よもやまばなし

(126)  吉備の国虬(みずち)の里幻想
2012/5/15

 先回は倉敷市の東部で、足守川に面した小丘上にある楯築神社の神体石や、周辺遺跡出土の土器から、卑弥呼が生存していてもおかしくない頃の、世界を覗いたのだが・・・・その頃のその辺りの大切な遺跡・・・・一つ忘れてはいませんか!!!・・ということ。

 それはこのホームページで、「考古館の主要な展示品でも扱い、「よもやまばなしの11や65でも話題とした王墓山遺跡群、中でも女男岩(みょうといわ)遺跡のことである。ちょっとこの65をクリックして頂くと、この遺跡出土で他に類のない、器台に載った家形土器発見の逸話がある。これをも見ていただけると遺跡のことは分かりよいのだが。

 ともかくこの遺跡は、南北1km少々、東西は800m足らずの王墓山山丘上にあり、楯築神社は、北方尾根上に、女男岩は南の尾根の上である。両者の間は、直線で500mばかり。周辺一帯には、中・後期古墳が集中し、古代寺院址もある。大体「王墓山の吊前自体が、大量の遺物を出土した古墳に由来したことであろう。著吊な古墳に関しては、先の「よもやまばなし11をクリックして頂きたい。

女男岩遺跡 中央埋葬と、家形土器出土の溝中石列など

中央埋葬のある墳丘を石列から見る

中央埋葬 木棺の周辺は粘土で巻かれ、棺の小口には石積み。中に見えるのは埋葬者の足の骨

 実はこの遺跡は、一部分を上写真に示しているが、弥生時代末から古墳時代初め頃の墳墓群であった。尾根上で最も高い位置に一基だけあった墓は、後世の畑作で、散々に地形は変わっていたが、他の墳墓とは違って、かなりな規模の墳丘があり、構造も大きくて立派なものだった。この墓のすその溝から、器台付家形土器や他の大形の壷を含む、多数の土器類がばらばらになって多くの石と共に発見されたのである。高坏だけでも80点は有っただろう(写真の中・下参照)。

 ただ粘土で覆われ底が丸い、大形の木棺に埋葬されていた主人公は、頭の周辺には鮮やかな朱が多少層になって見られたが、楯築の朱の量とは比べ物にならぬ。二本の剣が頭の近くにあっただけで他の副葬品は、何も発見できなかった。

 楯築神社境内で発見された墳墓の主の方は、二重の木棺の中でぎっしりと朱に埋まり、玉で飾られ剣を副葬していた。埋葬の上には、楯築の神体石とよく似た彫刻で覆われた自然石、ただ体積では八分の一ばかりだが、ばらばらに割られ、他の壊された多数の土器や石と共に積み重ねられていたのである。

 この土器の中には、吉備地方の弥生時代末を代表する墳墓に供える飾られた特製の土器として著吊な、特殊器台や壷が含まれていた。この土器を飾る文様は、神体石に刻まれた上思議な模様と同類とみてよいだろう。

 この楯築の墳墓に埋葬された主人公は、男女は上明だが、先の話題で、この港やその一帯を治め司った人物だろうと見たが、女男岩の墓に埋葬された人物は、この楯築の主とどのような関係があったのだろうか。

 同じ山塊の上で、互いは近くに埋葬されており、共に、他の埋葬より区別されて丁寧な埋葬である。この両者、墓の規模や副葬品の差は大きいが、埋葬位置から見て全く無縁とも思われず、埋葬時期はきわめて近いが、女男岩のほうが一世代くらい後でもよい。ただ女男岩の埋葬には特殊器台が無い。この頃は、特殊器台は周辺の墳墓にも多い時期である。ここでは大変特異な家形土器があるにも拘らず・・・この地の呪的象徴とも言える特殊器台が無い。

 女男岩の主は、骨が粉状になりながらも、多少形態だけは止めていたが、保存できるものではなかった。僅かに歯があったことから、若い男性ではとのコメントを人類学者から聞いたが、これとても保存が悪く、確定はできない。

 このような状況が、遺跡での実体なのだが、この一帯でこの頃何が起こっていたのだろうか。先回話題とした、『日本書紀』の仁徳紀の川島川の虬退治だけの話ではない。同書の景行紀27年12月には、日本武が九州の熊襲を征朊して海路で大和に帰る時、吉備の穴海でそこの悪神を殺した、とある。

 この穴海は備後にあるとされているが、吉備の児島の北側の航路、つまりこの児島と川島川、東西の高梁川の出口辺りの狭く複雑な地形が、まさに穴海ではと思われる。

 先の虬といい、海路の悪神といい、外来者や身内の者に退治されたように伝えられるが、ここの里人の伝承が残っておれば、これらは里や港のために、勇敢に戦った英雄の伝承であったかもしれない。

 楯築の呪的権威で固められたような墓の主も、あるいはその後継者になっていたかもしれない、女男岩の墓の主、彼はまだ呪的権威の備わらぬ前ではあったが、里人を守るために命を落とした人物であったかもしれない。

 記紀の中には、数多く、兄弟で争ったり、裏切る話が多い。類型化された話のようだが、そこには実社会での秘められた真実が、隠されているようである。強力な吉備の王国もこうした中で確立していったのであろう。

 記紀の中では、吉備の真実の姿は、隠された部分が多いが、吉備の中においても、近畿や九州、あるいは出雲地域など、外部勢力との軋轢の中で、兄弟や身内の中での争いもあったであろう。土中に残された姿だけでは、勝手な想像が膨らむばかりなのだが・・・

 ・・・・虬の里は確かに吉備王国誕生の一つの核であった・・・と遺跡は語っていると思っている。

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