(162) 草(?)葺屋根 - よもやまばなし

(162) 草(?)葺屋根
2013/11/15

 現代の日本国にも、まだ草葺屋根の家屋はある。だが今では一般の民家には大変少なく、その中の立派なものの殆どが、重要文化財や登録文化財に指定されているようだ。屋根を葺く「草《は茅が主であるが、その茅の収集は、かなり大変なことで、かつては農家の多くで、稲・麦藁葺だったのでは。

メキシコのユカタン半島にある、カバ遺跡入り口に建つ草葺屋根らしい家

 しかし縄文時代以来の竪穴住居址には、茅とか葦とか自然界の材料を使用しているのが、当然だろう。ただそれぞれの地域で、何を使用していたか、正確に知るためにはなかなか資料が残っていない。とはいえおそらくは、茅のような椊物に違いあるまい。

上の屋根部分拡大.棕櫚の葉葺だった

 かつて倉敷考古館で調査した弥生時代末頃の竪穴住居址で、たまたま火災で焼失したと思われたものがあった。この住居址についても、既に4年以上も昔に、55・56話で話題としている。ちょっとクリックして頂ければ・・・・ただその時は、住居復元中の地震の話や、焼け跡の壷の中から出土した種子から、果実酒を想定したような話だったと思う。

 この住居址が火災消失だった事で、普通なら遺跡内に残りにくい構造材が、炭化して残っていた。このうちの屋根材らしい物や種子などの種類について、倉敷にある岡山大学農業生物研究所(古くは大原農業研究所であった)の笠原安夫先生(既に故人)に同定を依頼したのである。その結果の一つが果実酒でもあった。

上の家の内部 土間で、天井から多くの道具が吊下げれている。寝るのはハンモック

 資料が火災により炭化したものだったため、同定には灰像法が用いられた。詳しくは『倉敷考古館研究集報 第5号』1968年10月を参照されたいが、保存のよくない炭化物の同定にはかなりの手間がかかっている。ともかく屋根材らしいものは茅(ススキ)であった。

 こうしたこともあり私たちの常識は、原始・古代以来の屋根を覆うものは、瓦の採用までは、杮(こけら)や板葺きがあるとしても、茅とか葦であり、農耕が始まってからは藁葺きも多いはず、とだけ思い込んでいた向きがあった。

 ところで、また先般来話題としているメキシコのことで申し訳ないが、特にユカタン半島を車で走っている際、草葺屋根をかなり見かけたのである。随分と近代的な建物の間に建つものも多く、観光用に再現された家屋を思わすものに思えた。しかし通常の生活に使用するものも有るようだ。このあたりには屋根に葺くような茅か葦のような草もあるのかとも思った。

 先々回、写真1枚だけ挿入したカバ遺跡でのこと、そこはマヤ文化の代表的な遺跡の一つ、ウシュマル遺跡に近接している遺跡だが、トップに写真を示した草葺と思われる屋根の家が、遺跡入り口近くにあったのだ。このカバ遺跡は、ウシュマル遺跡と一括で世界遺産に登録されている。しかし調査・復元途上の遺跡であり、観光客も少なかった。

 この遺跡の状況写真も、せっかく写しているので、ちょっと参考までに修復中の写真など数枚を下に示したが、私たちには綺麗に修復された遺跡より、よほどこの遺跡のほうが構造などもよく分かり、面白かったのである。復元作業の人達も働いており、近くにはまだ、近年では全く人手の入っていないような石造構造物(下の写真左端)も望めたのである。

カバ遺跡から見える、草や樹木に覆われていた、ピラミット状の石積遺溝

カバ遺跡の現状

修理中の様子

尖った三角状の石積み屋根構造は当時代の特徴的な石積み工法とのこと。

 ところで話の本体の草葺状屋根家屋(左最上部写真)、壁は細手の丸木を立て並べただけのもの。  
周辺には何か道具類も置かれている。観光用の復元家屋ではなさそうである。・・・・物置だろうか?・・・
ガイド氏にこの地方の草葺屋根の材料についてたずねたところでは、「棕櫚(しゅろ)の葉《とのことだった。「草葺《ではないのだ。木の葉葺とでもいうのか?遠目には草葺的・・・

 たまたま近くで目にした草葺状屋根。ちょっとよく見たいので、同行の方々から少々外れて、家に近かずいた。屋根材は確かに棕櫚の葉であろう(左上から2番目写真参照)。周辺には樹林も多く、棕櫚も多い。材料にはこと欠かない。身近な材料の有効利用こそ、当然のことだろう。これもガイド氏の言だが棕櫚の葉屋根は、4~5年で葺き替えるとか。  
ついでにそっと中もと、確認もせず暗い入り口付近から中に向いてシャッターをきった。とたんに見えたのは、中にハンモックがありそこに寝て、印刷物を見ていた人だった。思わず日本語で「すみません・・・。」

 中年の女性だった。こっちを振り返ったが笑い顔だったので、ほっとする。少々厚かましいが、こちらも笑顔と手まねで、内部の写真をとってもいいかと頼んだら、大丈夫らしい。大急ぎで、内部を見てシャッターを切ったのが右上最下の写真だった。壁の細木の間から光線が入る状況。

 室内は土間のままで、屋根からいろいろの道具類が、ぶら下がっていた。テーブルは、太いワイヤロープでも巻いていたような、木芯のローラーを立てたものか、隅には調理用具があったようだが、良く見えなかった。ここは確かに生活の場・・・・ただ常時住まう住宅ではなく、案外近くの土産物売り場や、食堂の従業員の人の、短期的な住まいの可能性はあるだろう。

 他で見かけた同様な屋根の家では、壁が漆喰いで仕上げられているようだった。常時住まう家であったら、当然だろう。しかし現場の家内部を見たとたん、縄文か弥生時代頃の住居内が頭をよぎった。土間に草で作られた敷物でもあれば、縄文人などの家も、こうした感じの家であろうかということだったのである。

棕櫚葉葺の円形食堂

食堂内部の天井からは多くの縫いぐるみの人形がつるされていた。

 すぐ近くには、まるで観光用に作られた棕櫚の葉葺屋根の大きな円形食堂(左写真の左)があった。私たちはそこで昼食をとった。上思議な事に、ここの大きな円形の天井裏から、縫い包みの人形が、たくさん吊るされていた(左写真の右)。ガイド氏の説明では、その人形達に菓子などつめて、子供の誕生日のような時に、子供たちが人形を下から叩き壊して、中のものをもらう、そうした習慣のあることを表しているという。

 先の家の天井から吊るす物との違いは大きい。吊るした人形を叩き壊す習慣など、何時からなのか?メキシコでは普通の習慣なのだろうか? ・・・縄文時代の土偶がばらばらに壊されるものだったことを、つい思い出していた。・・・だが習慣などと言っても新古さまざま・・・祭りなども始まって30年も経つと、伝統の祭りと言われる。この人形壊し何時からのことなのだろう?・・どうして始まった習慣なのだろう??

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