(43) 女護が島? - よもやまばなし

(43) 女護が島?
2008/11/1

 少し先の40回では、男性四人が同時埋葬された話だった。縄文時代のことである。今回も縄文時代のこと。左の写真の土器が出土した遺跡、倉敷市の南端に位置する児島の粒江地区にある、古くより著名な船元貝塚での話である。

 写真はその船元貝塚出土の土器片の拓本と器壁断面図で、遺跡の調査報告書などに使う、なんとも味気ないものである。この土器は考古館に展示してあり、「船元Ⅱ・Ⅲ式」などと、これも考古学の専門家にだけ通用する用語で呼ばれる代物だが、縄文時代を勉強する者には、それだけで西日本の縄文中期の代表的な標識を示す土器

船元貝塚出土 縄文時代中期の土器

1920年(大正9年)10月 船元貝塚発掘時の写真 (左)人家の庭で人骨の発掘中

(右)発掘関係者と見学者か

 しかしこうした遺物だけ見ていたのでは、この遺跡に対して特に興味はわかないであろう。その地が「児島」の名の通り、近世近くまで島であり、この遺跡もすぐ前面まで瀬戸内海がせまる、低い台地になった先端にある。瀬戸内の中央近くで、縄文時代の貝塚が密集するこの地域では、ごく普通の立地と規模を持つ貝塚であった。

 ところで右下の写真は、実は1920年(大正9)10月頃の遺跡周辺写真で、当時この貝塚が発掘調査された時の写真。幾枚かが地元に残されていたものを、これも30年ばかり前に、複写させてもらったものである。ここにあげたのは、人家庭先での発掘風景と見物人も含めた集合写真である。この時は人骨が3体発見されている。

 この調査の直前の同年5月には、京都大学の清野謙次氏(1885―1955)が、この地で14体の人骨を発掘している。彼はこの遺跡のことを、粒江貝塚とも、小字名から原崎貝塚とも記載しているが、同一貝塚のことである。正式の遺跡調査報告は無いが、同氏の『日本原人の研究』(1925年)には次のような事が書かれている。本文通りではないが、要約だけを参考に記しておこう。

 「この貝塚は児島半島連山の北側で、南西から北東に突出した低い丘陵上にある。・・貝塚上には人家が多くたっている。・・・

 貝層中央部はほとんど地ならしで失われ、最下部が残るだけである。こうした所に人骨は多く、人家の庭先などである。地表下数寸で人骨が現れる。14体を発掘した。・・ぼくの掘り続きから、同年の10月に福原八郎氏と島田貞彦氏が人骨3体を得たが、まだ発表せられない。」

 庭先を掘った人家に残っていた写真は、この後者の発掘時のもので、写真の中には出土人骨3体もある。

 発掘関係者と見物人との集合写真では、よく見ると子供たちは全てまだ着物姿で草鞋履き。90年近い昔では、風俗にはかなりな違いが有る。今ひとつ気になるのは、この写真中にすぐには女性が見当たらない。子供を抱いている人も男に見えるのだが、あるいは女性?この人物の左隣があるいは老婆かも?・・・目立つのはすべて男性。

 この頃発掘などは、女性は見に来ないのか?・・人骨が出たから嫌なのか?・・・それとも写真など写すときは隠れるのか?・・衣服が気になるのか?・・・

 子供にまで女子が見えないようだ・・・右端近くで、男子の後ろからわずかに顔を出しているのが、あるいは女の子?この子の姿は子供を背負っているようでもある(ただ2枚の写真で、菅笠や帽子を被った小さい子の性別は不明だが)・・なぜ子供も含め女性がほとんどいないのか・・・当時の女性には、自分の好奇心を満たす時間など無かったというのが真実では・・かなりな年の老婆か、子供でも子守中だったことで、女もやっと珍しい発掘をのぞくことが出来たのでは・・・

 ところで女性といえば、この貝塚の出土人骨の性別で少々奇妙なことがある。

 現在京都大学に保管されている、船元貝塚人は、清野氏発掘人骨が主なものであるが、これらの性別は、男性は2人、女性は10人、性別不明が2人ということである。(山田康弘「人骨出土例の検討による縄文時代墓制の基礎的研究」2002/3)。先の1920年の同じ地域での集合写真上の男女数とは、正反対。

 この状況を見て実は首をかしげたのである。というのも周辺での貝塚出土人の性別と比較して、京大蔵の船元貝塚人はずいぶん女が多い。同じ児島の海辺にある、岡山市彦崎貝塚(つい近年国指定史跡となった)では21体中11体は保存が悪く性別不明だが、分かったものでは男性6・女性3・幼1だった。考古館で調査した倉敷市里木貝塚は、船元貝塚からは海を10kmばかりへだてた北西で、おなじ瀬戸内に面しているが、23体中、不明4・男性12・女性5・幼小2。

 先の40回で話題にした涼松貝塚でも、実は人骨は時々に17体が発見されている。ここでは男性12・女性4・幼小1で、先回の男性4体同時埋葬を特異なものとして、男性からこの4人を除いても、男性は8で女性4の倍である。

 ともかく船元遺跡周辺で、同程度の数の人骨が出土している貝塚では、男は女の2倍からいたことになる。この中で、船元貝塚では断然女性優位である。貝塚に埋葬されている人骨だけで見れば、船元貝塚は女護が島(村)ということであろうが、さてなぜこのような現象が起きたのか?・・・縄文時代の謎もまだまだ多いようだ。

 この船元貝塚のことは次回でも扱いたい。出土人骨については、奇妙なミステリーもあるのだ。

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