(25) 中津貝塚の耳飾 - よもやまばなし

(25) 中津貝塚の耳飾
2008/4/1

 中津貝塚は倉敷市西部の、玉島黒崎にある。倉敷市域には古くから有名な縄文貝塚が多いが、中でもこの中津貝塚の後期土器は、西日本では縄文後期の代表的な標式の一つともなっている。「これ中津式土器ですよ」と言うような言葉を、各地の縄文遺跡調査ではよく耳にする。

中津貝塚の人骨が着装していた耳飾

津雲貝塚の耳飾

 遺跡地は、今では海から2kmばかり遠ざかってはいるが、縄文時代にはすぐ眼前まで、海が水道状に入り込んでいたと見られる、低い台地上である。古くから畑地になっていた遺跡からは、耕作に伴っては、土器・石器類の発見も多かったが、人骨が発見されることもかなりあったようだ

 半世紀以上も前のことになるが、既に故人となった方だが、考古館には何時も協力頂いていた、地元の西岡憲一郎氏によって、ここからの人骨発見が館に知らされた。直ちに現場を訪れ調査したが、人骨は貝層中心部よりやや北に位置しており、屈葬した体がやっと入る程度の、墓壙に埋葬されていた。

 この人骨が左耳に着けていたと思われる状況で発見されたのが、上の写真に示す鹿角製の耳飾であった。ただし写真には両耳用に二つ揃っているが、実は発掘で発見されたのは、写真で左方の一つだけだったのである。

 こうした切れ目のある耳飾は、切れ目のところに耳たぶを挟んだように思われるが、この頃には耳たぶに、はかなり大きい孔が開けられていたようで、それに耳飾の切れ目を引っ掛けるようにして、着装していたのである。

 この人骨は右手に二個、左手に三個の2枚貝(サルボウ)製の腕輪をもはめていた。この種の腕飾りをつけた人物は、今までの例から見て女性なのである。この埋葬に関しては『石器時代』1号(石器時代研究会 1955/4)に状況が報ぜられているが、その中でも耳飾は一つだけ報告されているに過ぎない。

 ところで当時、地元山陽新聞の地方欄に《瀬戸内の夜明け前》というタイトルで、主に岡山県の、旧石器時代から奈良時代に至る遺跡や遺物をベースにして、まるで小説風の物語が連載されていた。この物語は愛読者が多かったようで、連載直後の、昭和30(1955)年9月には、『瀬戸内の夜明け』と題した単行本になっている。

 この中で早速に、中津遺跡発見の人骨が取り上げられているが、耳飾が片方しかなかったことから、物語は大きく膨らんでいる。中津貝塚から西方に、直線距離では11kmばかりのところには、国指定史跡津雲貝塚がある。この津雲貝塚では古くから、100体を超す多数の人骨が発見され、この人骨の形態から日本人のルーツにも言及され、教科書などにものる著名遺跡となっている。

 この津雲貝塚からは、下の写真に1個だけ示したような、中津貝塚出土の耳飾とそっくりな耳飾が一点発見されていた。写真は報告書からの複写のため鮮明ではないが、大きさ材質も中津の物とほぼ同じである。

 中津と津雲のこの一つずつの耳飾から、物語は、津雲の双生児の姉妹が、中津と津雲の漁場問題も絡んで、一人が心ならずも中津に嫁入りする事になり、離れ離れになるとき、一対の耳飾を片耳ずつに分けた、そうしてその後・・・・というような内容に仕立てられていた。

 ところでしばらくの後、人骨の調査を依頼していた鳥取大学の小片保教授より、頭骨に食い込む形で右耳付近に密着していた、ということで、今一つの耳飾が送られてきたのである。ロマンを誘う物語は、霧散した。その後の訂正物語は無い。

倉敷考古館日記だより
昭和30(1955)年1月9日 日 晴(寒さ厳しい)

 ・・・午後中津より人骨を発掘して帰館・・

 (中津遺跡調査についての具体的な記載は、日記には無いが、1月6日から中津に通っている。前年の12月28日までは、鷲羽山の調査を行っており、30.31日は館は年末休館だが、この間も金蔵山古墳の遺物整理を続けている。日記には31日の日付で「今年もあわただしい年の暮れでした」と一行ある。)

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