(185) 中秋の名月だった - よもやまばなし

(185) 中秋の名月だった
2014/11/1

 「えつ!これ何」 一瞬ちょっと退いた。連泊のホテルの食堂・・・昨日よりは薄暗く感じた食堂に入って、先ず目に飛び込んだのが、左の人面だった。昨日には無かった。よく見るとスイカで巧みに作った顔だったが、頭だけと言うのは、少々気味悪くもあったのだ。

スリランカのホテルにて
満月の夜の食堂の飾り

満月の夜のホテル食堂。

スイカや果物が見事に加工されていた。

 先回に続いてまたスリランカ旅行中のことで申し訳ないが、めったに出ない海外へ出ると、やはり何かと話題は多い。これは先回話題としたシ-ギリア遺跡に近いダンブッラにあるホテルでのこと。遺跡見学に便利なためか、ここで連泊したのである。

 この地にも世界遺産となっている、黄金寺院と呼ばれる石窟寺院があり、一帯には、これも世界遺産に登録されているポロンナルワ遺跡もある。ポロンナルワは、スリランカで、紀元前4世紀から紀元後10世紀まで栄えた都市アヌラーダプラが、度重なるインド軍の攻撃で陥落した後、11世紀半ばから13世紀まで都があった地で、優れた寺院や仏像など多い。

 ダンブッラでのホテルは、大きな貯水池の岸で、緩やかな山腹にコテージ風の独立建物が散在し、そこに宿泊客は分宿する形であった。食堂に行くにもかなりな野外の距離を歩いたのである。私達の同行者の中には、自分の部屋へ行くのに道を迷って、荷を運ぶカートで、送ってもらったとか。

 その日は、シーギリアのロックを登り、ポロンナルワの見所の多い遺跡を、かなり強行軍で見学した日の夕食だった。私達を迎えてくれたのが、西瓜の彫刻。聞けば満月の飾りと言うことらしい。確かに日本でも、中秋の名月という日だった。

 ところでその時、ごく当たり前のように告げられたのは、「今夜は満月ですから、酒はだめです。」・・・「・・??」これを知っていた同行者は居ただろうか・・・

 日本での中秋の名月では「月見団子にススキ」・・酒を添えるところもあるようだ。「豆名月」「芋名月」の言葉もあるが・・・名月の夜の禁酒など思いも寄らなかった。熱心な仏徒の多い国、仏教の経典にでもあるのだろうか。満月と禁酒の関係はなんだろう。

 禁酒の理由も、また全ての満月なのか、中秋のような特別の満月なのか、聞きたくとも、言葉は通じないし、ガイドさんも見えない。みんなジュースや水で疲れた日の夕食は早々に済ましたのだった。ともかくスリランカでのこうした風習は、一般的なのかどうか?何故なのか・・詳しいことを、ついに聞かずにきてしまったのは残念だった。

 だが私達も、日本ではなぜ中秋の名月に、ススキや団子を供えるのか、と改まって聞かれると、答えにつまるのでは・・・それが何時からあった習慣なのか、何の意味があったのか、地域で差はあるのだろうか・・・

 わが国の簡単な歴史事項の手引きともいえる『読史備要』(東京大学資料編纂所編)では、平安時代以後のことだけではあるが年中行事について、旧暦8月15日は、公家は「月宴・御遊びあり」とだけはある。室町以後になって、武家について「名月御祝」、江戸時代になって、やっと民間で「十五夜月見」と記されていた。何かの文献中に見られる記録だろう。

 いちいちの検索は、文献や・民俗研究者にお任せすることだが、現在も入試ともなるとつい神頼みとなる、その神様になった平安前期の貴族、菅原道真(845~903)の、著名な詩歌集『菅家文草』を開いてみた。

 ここの詩篇には「八月十五夜(夕)・・」と題名のつく詩が4点もあった。なんとも彼の学問の深さや、詩の上手を示すもの・・さすが学問の神様、気楽なお月見では付き合えない。

 ただ月の出を夜の11時頃まで待ち続けた詩の中で、「酒は十も巡り、詩は百も詠じた」とあるのは、当然ながら酒宴だったこと・・・その頃の高級貴族の宴で、禁酒などありえないはず・・・ただ月見団子は?・・

 この中央政界の只中で右大臣として活躍していた彼が、左大臣であった藤原時平の讒言で大宰府に左遷されて後、8月15日より1月後の9月15日に読んだ詩には、「囚われ人の自分、月の光は鏡のようでも、罪を明らかにしない・・・」となげいている。この時は、酒も無かったのでは。

 現在では私達にとって、中秋の名月は今の8月で無く、旧暦でほぼ1月後れに訪れる、9月中の満月である。そこで敬老の日は、制定時は9月15日ということであった。中秋の名月に近い頃に制定されたのは、何か月見の習慣とでも関係があったのか・・・と勘ぐったのだが・・・

 実は太平洋戦争の敗戦直後ともいえる1947年、当時の兵庫県多可郡野間谷村で、丁度農閑期となり時候も定まったこの時期に、村を支えてきた老人に感謝と言うことで、敬老の日を定めたことに始まると言う。

 月見とは全く縁遠いことだったが、考えてみれば、米を主体に生産している状況なら、9月と言う月は、台風などの季節が過ぎれば、暑さも去り米の実りにはまだ間のある、農作業では、ちょっと一息つける時期だったのだろう。

 月の満ち欠けは文字も記録も知らぬものにとっても、日時の移りを、間違いなく示してくれる。秋の澄んだ満月の頃には、米の収穫はまだでも、サトイモや豆の収穫は始まる。あるいは何かの粉で作れる団子は、用意できるだろう。

 ・・・・ススキも穂を出しかけた。夜も夜長になりだした。稲穂の形に似たススキの穂を使いながら、村の長老は稲作のこつや、人生の体験を、満月の光の下で、月を指し、日時を繰りながら話したのでは・・・もちろん団子など、みんなで頬張りながら・・・・

 敬老の日の設定経緯を知った時、私の勝手な思いは、弥生時代の稲作世界に飛んでいた。弥生人もきっと秋の満月の日には、家族や村人ともども、実りの季節の平穏を幸せな気持ちで過ごす時、月のうつくしさを知ったのでは・・・

イランのイスファハンにある2階造りの橋。ライトアップされている明月の夜。2011年9月

 禁酒と言えばイスラム教の世界、既に三年も前となったが、2011年の9月に、イランを訪れた。この時のことも、幾回か話題(114~117話まで)とした。思い出したのは、この時も確か中秋の名月の日があったはず。

 それはイランでは第二の都市、16~7世紀には世界の半分とまで称された、イスファハンでのこと。さきの114話に取り上げた、二階建ての橋に関係してだが、橋については114話をクリックしていただきたい。この橋がライトアップされていて綺麗だし、明月だから、夜に希望者は見物に行こうとガイド氏の誘い。

 この時月明かりの下で、月と橋を撮った写真。やっと探し出した。暗がりの土手は、アベックや家族ずれでいっぱいだったのには驚いた。写真には良く写らなかったが。特にこの日が満月ということに、関係あったかなかったかは、当時は思いつかなかった。もちろん酔っ払いや、宴会らしいものは、まったくなかった。

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