(38) 双子の装飾須恵器「われても末に」逢った話 - よもやまばなし

(38) 双子の装飾須恵器「われても末に」逢った話
2008/8/15

 先回は当考古館在住、装飾須恵器「鉢巻のおじさん」を紹介したが、この時、鉢巻をした仲間についての説明は宿題としていた。この仲間たちの話をする前に、人物・動物を付けた珍しいこの種の土器の、今一つの特徴的な性格を話さねばならない。

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岡山県瀬戸内市 長船大塚出土 装飾須恵器2点   (40年ばかり昔の写真)

二つ並んだ装飾須恵器の右側人物の付く部分 上;鉢巻3人部分写真

下;鉢巻をした4人のスケッチ図    (二つの図は90度方向転換)

 この話の舞台が、兵庫県と岡山県になっているが、これは何も当地が岡山県で兵庫は隣県だからというわけではない。この種の装飾須恵器は両県で、出土数の首位争いをしているのである。古墳文化といえば、大和、少し広く見て近内地方が中心というのが常識だが、こうした珍しい土器がなぜ地方である岡山・兵庫県に多いのか、これも謎・・

 小像達の実像を追うには、幾回かこうした土器にお付き合いいただかねばならないようだ。

 すでに10年以上も前、1995(平成7)年の9月ごろ、当時調査中だった兵庫県の小野市黍田町の勝手野古墳群から、装飾須恵器が出土しているとのニュースに接した。発掘調査中にこの種の土器が発見されるのは、大変珍しいことなので、ともかく現場を訪れた。

 そこで知らされた事実は、今までの装飾須恵器研究を、大きく前進さすものばかりだった。その中の一つが、双子ともいえるそっくりさんの二個の装飾須恵器が、6号墳と呼ばれた古墳群中ではむしろ小形の横穴式古墳入り口両側に、それぞれ立てられていた状況で出土していたことだった。

 そっくりの双子といったが、実は本体の形態や作りは、同一人物が同じものを、製作したとみてよい類似品だが、それぞれに付けられた人物・動物(これも作り方はそっくりだが)の数や行動表現には違いが有ったのである。つまりこの種の土器が古墳に埋納されるときには、小像の表現は違うが、姿形はそっくりの一対の物を供える場合もあるということが、遺跡で証明されたのである。

 ところで、今回左上に示した写真の二つの装飾須恵器は、現在は共に岡山県立博物館蔵品で、瀬戸内市長船大塚出土と伝えられるものである。ここにも一対での出土例があったが、実はこの二点は、近年になって、やっと揃ったものである。

 ここに示した写真は、40年ばかりも昔のもので、これらが県博の収蔵品になる前に、二つが共にあったという証拠写真でもあるのだ。岡山県立博物館の開館は1971年で、その翌年頃購入され同館で所蔵されてきたのは、実は写真左の一点のみであった。

 今一点は近年まで個人の所蔵品で、京都国立博物館に長く寄託されていたものである。今回使用している写真は、私どもが装飾須恵器を調査していた頃、当時の所蔵家の方から頂いたり、個人的に撮影させてもらったものである。これらをもとに両者が同一古墳出土に違いないとの考えを、研究誌(「一対の小像付装飾須恵器」『神女大史学』13号 1996年9月)に発表した。この中では同様な装飾須恵器が二つ対で出土した例を、他に五例ばかり示したが、それらは岡山県三例・兵庫が二例だった

 二つの土器は、ながく別れ別れになっていたのだが、両者には深いつながりがある点を報告したことも契機となったのか、その後、個人所蔵者の方から、県博へ寄贈され、再び二つの土器は、両者の小像たちは、相まみえることになったのである。

 この二つの装飾須恵器は並べた写真では、かなり違っているように見えるが、別々に見ると、両者を取り違えそうである。実際に須恵器研究者で知られている人が、うっかり両者を取り違えて慌てたという実話もある。

 付けられている小像群の形態が違いながらも、それほど一体的な感じの二個の土器を必要としたのは、肩の上で展開する人物・動物たちの世界を示すには、一個体では足らなかったということかもしれない。珍しい遺物だが、一古墳に複数あることが多いのも特徴といえよう。

 まるで他の博物館所蔵品を宣伝したことになったが、かつて個人蔵であった方の須恵器小像のスケッチと、部分写真を右にいれた。実はこの中に、問題の鉢巻人物が4人もいるのである。

 やっと鉢巻にたどり着いた、ここの鉢巻の人たち、いったい何をしているのか?なかなか個性的な造形である。鉢巻の仲間は他にもまだいるのではないのか。余談がまた長くなった。「鉢巻」はまたまた次に持ち越すことをお許しいただきたい。

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