(157) 名付けと共に消えた金浜古墳 - よもやまばなし

(157) 名付けと共に消えた金浜古墳
2013/9/1

 先回は江戸時代以来著名な、埼玉県の古墳時代後期の遺跡、吉見百穴とそこに20世紀になって作られた、航空機製作関係の地下工場を話題とした。しかしこれは倉敷の水島亀島にもあったもので、当方の話題としては亀島の方が本題だったはずなのだが、少々添え物になったようだ。

倉敷市連島茂浦採集の須恵器「はそう」
胴部の穴に管状のものを付けて注口とする

(上)金浜古墳石室より西の、かつては全て水島灘であったコンビナートを望む

(右上)基底部のみ残った石室と遺物出土状況

(右)現在展示中の、出土した須恵器の一部

 そこで今回は、吉見百穴の古墳時代と対比して、水島工場地帯の亀島周辺の古墳時代を眺めてみると・・・、このあたりは、今も「島」と名の付く地域以外の平地は、海だったのである。  亀島は長さが6~700mに過ぎない小島で、ここでは古墳は分かっていない。だがこの島からは、2kmにも満たぬ北に横たわる連島(先回の156話には、連島から亀島を眺めた写真あり、参考)には、入り江に面したような山腹に、それぞれ古墳時代後期の横穴石室墳が知られている。百穴のようなものでなく、せいぜい数基というものだが。

 中世になると、連島には瀬戸内海を行き来する舟の港が、文献にも記されている。島である事に違いないが、開けた地であったようだ。そのためかなりな古墳が消滅している可能性もある。例えばこれも40年も昔になるだろうか、連島の遺跡分布などを調べていた。その時低い山畑の畦に、石やごみと混ざって、完形に近い7世紀初め頃の須恵器数点が捨てられていた。

 周辺に古墳とか、当時の祭りでもした痕跡は無いかとも思ったが、まったく分からなかった。わざわざ何処からか須恵器を持ってきて捨てた状況でもなく、畑地となる前に、小形の後期古墳があったのだろう。出土の古い焼物など、ガラクタには違いない。その時採集した須恵器の一部は、考古館の展示に加わっている。右の写真が展示中の須恵器「はそう」(酒器の一種)。

 亀島から見れば東、4kmばかりのところには、吉備の児島として、『記紀』の国生み神話の頃から、文献上でも知られた島がある。この「よもやまばなし」でも、幾度も登場した島である。この島は大きな島であるため、古墳も各地にあるが、多数が集中した状況ではない。

 今回話題の金浜古墳は、この児島で西の水島灘に面した山丘から伸びた台地の上にあった。亀島から直線ならば海上6kmの地。今ではこの間は、すべて水島コンビナートとなっている。

 1977年、この地金浜で土取りが始まって、古墳の存在が確認され金浜古墳と名付けられた。横穴式の石室は、天井石も石室壁面の上半石材の多くも、破壊され失っていたものだった(左の写真参照)。急遽の調査に考古館も関わった。当時はまだ市町村に専門の調査員の居なかった時代、随分と忙しい日々であった。

 しかもこの時は、この「よもやまばなし」では常連というほど話題とした、考古館前の中橋が、石材での架橋100年に当たる年だった。全く私的に仲間10人あまりで、記念行事を企画し、実行していた頃でもあった。橋の上で、開催の式典らしい行事の後、急ぎ古墳発掘の現場に走ったものである。現在のような、作業員さん任せの発掘ではない。排土なども、全て自分たちの手で片付けねばならない時代であった。

 しかし古くに壊された遺跡は、現代のように、重機を利用して根こそぎ壊したものでないから、まだまだ多くの過去が生きていた。この金浜古墳でも、石積み石室の基底部は良く残っており、取り残された須恵器も各種70点に上り、鉄器も刀や、鉄鏃片もかなり発見された。この6世紀代の古墳には、前面に海が広がっていた事を示すように、魚を刺す「やす」も副葬されていた。

 だがこの古墳、中世にはすでに開口し、当時の人に使用されていたらしく、14世紀中ごろかと見られる土鍋片や、碗なども出土した。仮小屋の代わりにでも、使用されたのだろうか。中世の人が使用した時には、すでに古墳内には50cmばかりの土が入っていたようだ。その後にも床面が掘られた形跡もある。周辺の土中からは、9,000年も昔になる、縄文時代早期の押型文土器や石鏃まで発見された。瀬戸内に面した低い台地状の場所には、小規模ながら縄文早期の遺跡が、点在するのも、この辺りの特性であるが、ここでも確認できた。(詳しくは『考古館研究集報14号』1979年参照、まだ在庫あり)

  この古墳調査後は、土取りによって消滅。名付けられたと共に消えた古墳だった。僅かに残った遺跡でもそこには、人々が生きた証が必ずある。東国で吉見百穴を築いた人達と瀬戸内の亀島近くの島々に生活した人も、細かい時代差を言うのでなければ、共に横穴形式の墓に供えた須恵器は、良く似たものであった。

 20世紀の地下軍事工場で、また同じ姿を見るようになったが、この間の千数百年の年月、互いの地では、どのような生活が続いたのであろう。吉見百穴の墓の中には、後世の人の証は無いのだろうか。吉見の場合は彫り易いということもあり、近代のかなりな数の落書きはあったが・・・

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