(128) 薬舗林源十郎商店の薬箪笥 - よもやまばなし

(128) 薬舗林源十郎商店の薬箪笥
2012/6/15

 上に挙げた木版刷りの絵は、明治17(1884)年に版本で出版された『商家繁昌中備の魁』に載せられていたものである。・・・・・どこかで見たような絵・・・ともし思っていただける方があれば、この「よもやまばなし」を続けている当方は、良く見て頂いたという、感謝の最敬礼をしなければならない。

『中備の魁』明治17(1884)年版に載る林源十郎薬舗

左店内に薬箪笥が見える

現在(2012年)の「林源十郎商店記念室」に展示されている薬箪笥

 既に4年半近い以前の話ではあるが、この「よもやまばなし」の13話で、当考古館の古い姿として、この版本を引用している。ここの13話をクリックして頂ければ、考古館の前身である生魚問屋小山助一郎家の版画姿がある。

 この本の小山家のすぐ前のページにあるのが、上の版画、倉敷本町(現在は阿知2丁目)の薬舗林源十郎の店舗である。一見版画なので似た感じではあるが、小山家が路上や舟での商いに対し、林家は家の表間口いっぱいで、薬の取引が行われており、多くの薬壷・瓶や、小さい引き出しで構成された薬箪笥が、細かく描かれている。

 古くからの倉敷と玉島地域で、当時の商家宣伝誌とも言えるこの版本に、倉敷で姿が載るのは、小山家と林家も含め5軒ばかり。これに対し玉島湊一帯では50軒もの問屋や商店が載る。明治初年130年ばかりも昔の、玉島湊の繁盛振りが知られる。

 現在、林源十郎商店だけでインターネットを検索すれば、倉敷で今年(2012)3月22日に開店した、倉敷市内のこの商店の紹介が多数載せられている。そこは昭和9(1934)年に版画で見た薬舗が改築され、木造3階建ての薬局として近年まで使用されてきた所だった。

 だがこの薬局も、閉店してすでに4~5年になるだろうか。

 ここがまだ薬局であった頃は、考古館からも大変近いから、一寸した日常の薬を買うには、私たち館員もここへ急いだものだった。考古館で短期に行う発掘調査の場合なども、救急箱の薬を一応整えたり、拓本墨作り用の、ひまし油を買ったり、時には頭痛薬を買ったり、風邪薬をかったり・・・

 3月開店した店は、この昭和9(1934)年の店舗を、あまり外観を変えず改装し、倉敷のいくつかの商店が合同で開店したものである。倉敷市の観光行政を背景に、古い店舗利用の店を開店したこともあって、マスコミでの宣伝も、今はかなり良く届いているようだ。

 しかし古い店舗といっても、先の版本に見る江戸時代の姿ではない。むしろ昭和5(1932)年、林薬舗改装2年前に鉄筋で建築された大原美術館の本館に、雰囲気が似ていた。それは木造ながら背の高い洋風建築を思わせる3階建てに、外装が大原美術館と同様、黄色の石材を思わすモルタル仕上げであったためであろう。

 当時はこの種黄色のモルタル外装の建築が、大形洋風建築の流行であったのか、岡山の中国銀行本店も、かつては同様の外装であり、大阪の住友銀行本店(現三井住友銀行大阪本店)や、神戸あたりの建造物にも同様の外装があり、今も僅かに残る。

 このモルタルの黄色い色が、モルタルを作る際セメントに混ぜられる砂、骨材として、兵庫県高砂市にある竜山石を粉末にしたものが、使用されたことによるようである。この石は、考古学ではなじみの深い、古墳時代の石棺製作時から、重要な石材として消長はありながらも、現代まで使用され続けてきた石材であった。

 ともかく1934年改装の林薬局も、倉敷にとってはすでに歴史的な建造物になっている。現在一応外観を変えず、また店舗として利用された事は、江戸時代の小山家が、一応外観を変えず、旅館と考古館になって利用されているようなものか、という思いではあったが、やはり江戸時代以来の、薬舗は消えてしまった、との思いも強かった。

 だが現在、この店舗内の2階の一角には「林源十郎商店記念室」として、かつての林源十郎商店の名前の由来となった店主や店の歴史の資料などが、紹介展示されている。そこには、あの版画に残されていた店内左方に示されている、薬箪笥と見てよいものが、展示されている。

 それぞれの引き出しには、古びた小さい和紙上に書かれた漢方生薬名の見出しも、千切れそうな引き出しの紐や金具も古いままの姿である。さすがに老舗、よく残されていた、あの版本がここに生きていた・・・・・

 ちょっと周辺の江戸時代の状況も振り返ってみたくなったが、少々長くなるので一休み・・・・・・次回に

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