(51) かめのこう(亀甲) - よもやまばなし

(51) かめのこう(亀甲)
2009/3/1

 よくこのような重いものを、下げて持ち帰ったものだと、今改めて思う。右の写真の、蓋がまるで亀の甲のような陶棺のことだが、全体だと17kgばかりだ。脇に置いた携帯電話から見て分かるように、小形のもので、横の長さは50cm余、高さも43cm。

 ケース内の展示品としては、決して小さくはないが、古墳時代後期、6世紀後半から7世紀代にかけて使用された、この種の陶棺は、大人がそのまま入れる長さ180~200mが普通の大きさなのである。普通の陶棺などは、数人掛かりでもおいそれとは動かない重量、これは小形で17kgばかり、蓋が別でも約12kgだったので、持ち帰れたのだが、やはり重い。 ・・・皆さんだったら、これを抱えて何キロ歩けますか?・・・

火葬骨臓器 土師質亀甲形小陶棺 岡山県久米郡美咲町出土

 この小形陶棺は、岡山県久米郡美咲町大字打穴西小字唐臼で出土した。ここはいわゆる平成大合併、2005(平成17)年以前には中央町であった。この町はその名のようにほぼ岡山県の中央辺りに位置しており、吉備高原と呼ばれている、中国山地の準平原地域を広く含んでいる。このなだらかで広い準平原上に、牧草地を作るためブルドーザーで整地した時、この棺が発見された。今から半世紀近く前の1961(昭和36)年のことである。

 このニュースは、倉敷考古館へ再々来られていた、地元の郷土史家松岡繁雄氏からの連絡であった。同氏のご案内で考古館から二人で現地を訪れ、遺跡の概要を知ると共に、同氏の尽力で、地元から寄贈いただいた資料を、3km以上もあったかと思う距離を、風呂敷包みにした陶棺を手で下げて、津山線かめのこう駅まで運んだのである。現在のような車社会で育った人にとっては、信じられないかもしれないが、まだ車の少ない当時、これが普通のことであった。

 この小形陶棺は、上部をほとんど失った、横穴式石室の中で、蓋は破砕されていたが、身は長楕円形、土柱で高さ11cmの足が6本付いていてほぼ完形、中に火葬骨が収められていたとのこと。現場で見ると、石室は下段部が長さで3mばかりは残り、幅も広いところでは1.8mばかりもあった。一緒に大形の陶棺も入っていたと見てよい。ここが崩されて押し出された土や石の中に、破砕された大形陶棺片がかなり混在し、石室内にも細片はあった。この石室内では、小形陶棺蓋の破片をかなり採集、粉末化した火葬骨片も見られた。

 文化財保護法はすでにあった時代だが、普及はまだまだの頃、こうした遺跡破壊の状況はしばしばだったが、以来半世紀、工事で遺跡が壊されるときの調査は、一応確立してきた。しかし調査しても遺跡が失われたことには変わりなく、遺跡喪失の数は、半世紀前の比ではないだろう・・・・・・・・

 その問題は別において、この遺跡が明らかにしたことは、さしずめ現在なら、マスコミの好きな「わが国最初の発見!」のタイトルが付いたかも知れないのだが・・・

 現在では、横穴式石室内から火葬骨蔵器が発見される例は、珍しくなくなったが、当時の常識では想定外のことである。ただ岡山県の私どもは、この火葬骨を蔵した小形陶棺の出現、しかも横穴石室内出土に「ああ、やはり」と感じたのが偽らぬところであった。

 古墳時代も終わり、新しい仏教思想の下で採用される火葬という最新の葬法などは、中央の貴族・高官・高僧などがまず用いるもので、都周辺に見られるのが普通、地方のようなところまで波及するのは、かなり後になってというのが常識だったのである。あるいは今でもそのように思っている人も多いのでは・・・何時の時代も、全ては中央から地方へと言う考えは、なかなか抜けない・・・

 岡山県の東半部では、古墳時代も終わり近く、陶棺が集中的に使用され、全国陶棺出土数の7割以上を占めること、同じ焼き物の棺でも、土師質と須恵質がある、というような説明は、以前にこのよもやまばなし(21)「二つの陶棺の主は?」でも述べたのでそれに譲るが、土師質・須恵質では、蓋の作りなどが大きく違っており、分布地域も異なっていた。

 いま話題にしている地域も含む、津山市を中心とした一帯は、土師質で、蓋が亀の甲を思わす、亀甲形と呼ばれる陶棺分布の中心で、今回の小形陶棺は、まさにこの大形の土師質亀甲形陶棺のミニチュアである。この小形陶棺の主は、新文化思想の下で、火葬にされた人物だったが、どうしても伝統の形の棺に納められねばならない、しかもまだ古墳時代とされている、横穴石室墳に埋葬されなければならなかったのだ。

 それはまさに、古墳時代から奈良時代への過渡期、7世紀末か8世紀初の頃なのである。都よりはるかに遠い、山中深い地でも、新文化を受け入れるのは、都と大きな差の無いことを、この小さい陶棺は、実態で証明したのである。

 半世紀ばかりの昔、当時の考古学の常識としては、まったく予想外の珍しい火葬墓ということだったが、私たちがあまり驚かなかったのは、すでに、小形陶棺に火葬骨のはいっていた例を、調査していたからである。ただそれは横穴石室には入っていなかったが。この小形陶棺については次回で触れることにしよう。

 ところで今回問題にした小形陶棺の出土地名は「唐臼」であった。すぐ近いところに、石に臼のような窪みを加工したものが山中にあり、こ の地名がついたようである。実はこれは、火葬骨蔵器を中に入れる、外容器だったと推定されている。この石の周辺には、方形の基壇が2段もめぐらされていた。この地域では、小形陶棺の主だけが、たまたま火葬にされたというようなことではない。奈良で火葬が採用されたのと,相前後した頃、このあたりの人も、かなり火葬にされていたのだ。一体どのような人達だったのか。次回で別の家形小陶棺と共に、もう少し考えてみよう。

 ・・・少々蛇足ながら、この地での津山線最寄の駅名は「かめのこう」。私たちだとつい、亀甲形陶棺の多い地域と結び付けたくなるのだが、実は駅近くに亀の甲を思わす大きな自然石のあることが、この名の由来のようである。

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