(181) 再利用再び・・(1)石棺の仏 - よもやまばなし

(181) 再利用再び・・(1)石棺の仏
2014/9/1

 「再利用」という言葉は、今や生活に定着してきているようだ。この「よもやまばなし」の最初近い時期の(14)・(15)話は、このタイトルであったが、すでに7年近くも昔のこととなった。その時の話は、クリックしていただければ幸いだが、考古館での、実生活に密着した倹約による再利用であり、今に至るまで、考古館ではこれとあまり変わることのない日常である。

兵庫県加西市玉野町山伏峠の石棺仏
(左)は長持ち形石棺蓋、暦応元(1338)年銘
(中)仏の石材は棺材か否か不明。
(右)は家形石棺蓋、建武4(1337)年銘

 ところで、古代寺院の礎石が、どこかの庭園の庭石として利用されたり、横穴式石室の石材が、そのまま他の土木工事の石材となったりは、すでに倉敷市の王墓山古墳でも触れてきたように、決して珍しいことではなかった。これもいわば石材の再利用である。遺跡にとって決して望ましいことではないが、歴史の中での、人々の意識の違いの表れでもあろう。現代人も目立たぬ遺跡の多くを、平気で破壊しているのである。

 兵庫県高砂市竜山やその一帯の石材によって、制作された古墳時代の石棺が、近畿や山陽道一帯に運ばれていたことは、これも幾度も述べてきた。実はこの石棺も、良質な石材で、保存も加工も優れていたこともあり、注目される再利用対象であったのだろう。これは特に、石材産地のかつての播磨の国一帯では、一種の社会的現象ともいえる状況である。

 山中に群集して築造された、今から1400年ばかりも前の後期古墳は、全国的に存在するものだったが、こうした古墳が、中世以降では、山野の開発で数多く壊されていったのも、また社会現象といえよう。

 このような古墳が壊されたとき、中に石棺があり、しかも少々好奇心や欲心もあって、重い蓋をこじ開けた瞬間に、保存状況の良い髑髏と、目を合わすことになったら・・・・少々のことでは動じない人々であっても、墓としての意識を強く感じたことであろう。そこに当時の人々の死者への対応も現れてくる。またすでに破壊された石棺材が、山野に放置されていたら、路傍に仏を制作し供養しようとした時、たちまちに利用できる、良質な材料ともなったであろう。

 石棺の多かった播磨の国では、古代の石棺の部材に、仏像を刻み、路傍や、寺の中、あるいは墓地で、信仰の対象になっている。こうした仏たちがどれほど残されているか、実数はよく分からないくらい多い。

加古川市平荘町長楽寺墓地

加古川市大国

山伏峠長持形石棺蓋の仏像

(高砂市内の石仏):高砂市内に石棺はほぼ20例ある。その中、石棺仏は4基のみ。上の3例は(左・右)ともに市内阿弥陀町谷口の石棺。左の二仏は文安4(1447)年銘あり。(中央)同地蔵山山頂、仏の石は石棺でない、前にあるのが石棺蓋

 石材での石造物がある。石仏の彫られていた本体が、確実に古墳時代の石棺だったかどうか、不明の物も多いのである。だが、石棺利用が確かなものだけでも、おそらく百基前後に達するだろう。これらのほとんどは、出土古墳が分かっていない。

 こうした仏たちを「石棺仏」と呼んだのは、かつて神戸新聞に勤め、文化財担当記者として活躍された壇上重光氏であった。その後、変わった野の仏として、石造美術研究者や写真愛好者にも注目され、特集印刷物も多い。

 ところで私どもも、播磨の石棺を追う中で、かなりな石棺仏にはお目見えしているのだが、罰あたりなことに、訪れた目的が仏の彫られた石棺の形態や、部材の状況だったので、仏様の方はつい疎かで、大変失礼したのだった。

 この竜山石石棺に彫られた仏像には、年銘の彫られたものも多く、基本的には鎌倉時代後半から、南北朝時代の作品が中心らしい。各地に多くみられる、路傍の仏たちのほとんどが、江戸時代以降に多いのと比べ、全体的に古く、しかも時代がかなり限られていることは、播磨で、ただ石棺が多く発見されたという問題だけでは、ないだろう。

 播磨に限らず、兵庫県から近畿地方一帯にかけては、鎌倉末から南北朝期には、特に騒乱が各地で発生していたことであろう。播磨の人々にとっても、石棺発見時の髑髏人に限らず、騒乱に巻き込まれた人々の姿も、この地の人々には無縁ではなかったのでは・・・

 播磨は良い石材があり、古くからその石材を扱ってきた人も多かったであろう・・・彼らの手で、石棺の主人公ともども、その時供養すべき人への思いも合わせ、仏が刻まれていったのでは・・・・・播磨で私どもも訪れた石棺仏たちの一部を、ここに挙げて、仏を作った人々と共に、石棺の主や、仏にも祈りをささげておきたい。

 播磨の国の事ばかり書いたが、この吉備国・岡山県に運ばれていた、竜山石の10例ばかりの事例には、石棺仏はないのかどうか・・・・児島半島の先端近くの八幡大塚で、まったくの無傷で発見された家形石棺は別としても、そのほかの3例の家形石棺、岡山市賞田の唐人塚、同百枝月の宮山西塚、同一宮の石舟古墳の石棺は、横穴式石室内に収まったままであり、それぞれの地域では大形の古墳であった。

 その他では、1例は中期の朱千駄古墳の長持形石棺で、現在では棺の姿のまま八幡大塚の石棺と並んで、岡山県立博物館入口の外に置かれている。またその他の中では、古墳終末期の小形石棺で、瀬戸内市長船町出土、現在京博蔵品や、同様に終末期の横口式石槨は、総社市久代の現地にある。出土地を離れた他の2例も神社にあるなどで、とくに何物も刻まれていない。

 ただ一つ、播磨の石棺仏に似たものと云えば、岡山市足守の奥の粟井に立つ、題目石である。これは竜山石組合家形石棺から作られたもので、「南妙法蓮華経」の題目を彫った部分が蓋石、基礎石が棺底石、その上と屋根石が、棺の側石など(左写真参照)。

 信仰の対象的なものはこれだけで、しかも「南妙法蓮華経」だけなのは、この地の一帯では法華信仰が強かったためか、題目石は近隣に多くあるが、(実はわが家のある岡山市中区の地域でも、随所で題目石が見られる)しかし石棺材利用は無い。これは岡山には、古墳時代石棺の少ないことにもよるだろう。

 古墳時代後期にも、地方によっての地域色があるように、中世以後の人々の前に古代の墓が出現しても、その対応は違っていたようだ。再利用も、地方の特性をよく示している。それが人々の、真の歴史なのだろう。

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