(65) ひとかけの土器片から - よもやまばなし

(65) ひとかけの土器片から
2009/10/1

 「ああ!この上に家が載るとは!!」

女男岩遺跡出土 家形土器台脚部 高,35cm

上部の家形部分のみ 右上写真台脚上に接着 床から棟まで14.5cm

 考古学の遺跡・遺物に関わった時、「ああそうだったか・・・」という経験を幾度したことか。それも初めの内は、自分の不勉強さから、知らなかったことが多かった時の感懐だった。しかし考古学を仕事として幾十年も経ってくると、ある程度どのような遺跡・遺物に遭遇しても、あまり驚かなくなるが、やはり自分たちの知識が至らぬ世界の多さを、思い知らされることは多いのである。長い歴史のなかで残された、遺跡・遺物の怖さということであろう。

 最初にあげた言葉を発したのは、今から見れば40年近く昔の話だが、その時も考古学の仕事に関わって既に20年になっていた時のことである。当時世の中は、高度成長期に向け驀進しだした頃、遺跡の急激な破壊進行の時代でもあった。こうした遺跡破壊に対応できるシステムなど、地方末端にはろくにない頃(今も充分だというわけではないが)でもあり、遺跡保存にわれわれも微力ながら声を大きくしていた時代でもあった。

 このような時、倉敷市庄地区の小丘陵一帯で、宅地開発が計画され、どうしても保存できなかった遺跡調査を、考古館で手伝った時のことだった。そこはいまでは庄新町となり、やや高い台地上に古くからあった住宅街かと思われるような、落ち着いた郊外の、緑の多い町となっている所である。

 この台地の一帯には、5~60基を越す古墳群があり、王墓山古墳群と呼ばれていた。王墓山などという地名も、今から丁度百年ばかり前の明治末年近い1909年、石材採掘中に古墳が発見され、膨大な遺物が出土したことに由来するのであろう。中国から舶載された珍しい四佛四獣鏡をはじめ、馬具や甲冑、多数の武器類に各種の須恵器など、優に100点を超す優れた遺物が、いま東京国立博物館に収蔵されているのである。この「よもやまばなし」11で話題にした石棺もそのときの出土である。

 これら古墳群や周知されていた遺跡のほとんどは、保存されたのであるが、工事が始まり樹木が伐採されてから、今回話題とした家形土器が出土した女男岩(みょうといわ)遺跡は、発見されたのである。

 樹木伐採後、今一度遺跡の有無を確認していた時、1cm角にも満たない土師器の様な土器片を目にした。この土器を含んだ遺跡があるのではと、試掘溝で追って50m以上、とうとう尾根筋を切る溝に、多数の土器片や石が投げ込まれたように堆積している遺溝を、発見したのである。この溝状遺構の中から家形土器も、ばらばらで発見されたのだった。

 この低い台地状の山は段々畑に開墾され、また放棄され草木が茂るというような状況だったようである。地表は削られ変形した部分ばかりであった。しかし人力で開墾しただけの地形であれば、まだまだずっと昔に、この地に自分達の営みを刻み付けていた人たちの姿を、伝えてくれる遺構は保存されていたのである。

 この時、地表からの観察では、例え樹木が無かったとしても、僅か10cm地下のことでも、全く分からないという、遺跡の怖さを思い知った遺跡でもあった。一かけらの土器片によって、この一帯が、吉備地方での弥生時代から古墳時代へという、変動期の、主要な墳墓遺跡だったことの発見であり、類を見ない家形土器の発見につながったのである。もし一かけの土器片を軽視し、工事を進めていたら、ブルドーザー一回の走行で、遺跡は壊滅していたであろう。

 一方ばらばらで出土した土器の方は、多くの土器片の中から、まず円筒埴輪のような筒形胴部に、埴輪そっくりのたがまで付いた、器台(右上写真)が復原されたのだが・・・・

 「さ~~分からない?」

 一方の端が長方形なのである。こちらが上向き側のようだが、こんな形の器台見たことも無い。私たちもそれまでに、吉備での特性として注目されている特殊器台は、かなり調査もし、報告もしてきていたのが・・・このような特殊器台は無い。

 家形のほうは、小さい土器片の接着が進むほどに、立派な家形(左上写真)になってきたのには、当時としては信じられない感じであった。弥生時代の終わりに近い頃とはいえ、家形土器が有るなど・・・

 それまでの知識の中には、弥生時代と思われる家形の土製品など全く無い。有名な和歌山市六十谷出土の家形土器は須恵器であるから、古墳時代も中頃以後のものである。この女男岩の家形より、300年ばかりは後のものである。

 いま一つ、その頃までに知られていた家形土器に、古く1916年に鳥取県の東伯郡東郷池の東、藤津で発見されていたものがあった。この資料は、古くは弥生土器かといわれていたが、1923年に和歌山県の須恵質家が出土し、形が似ていたので、これも古墳時代のものというのが、当時の研究者間の常識であった。

 ともかく初めてのことばかり・・・・器台と家形品は、少し離れたところで別々に復原していた。しかし・・・家形品に底が無い・・・大きさは似ているな・・・ちょっと思いつきで、家形を器台の方形部分に載せてみたら、なんとピッタリ。良く見ると互いに剥げた痕跡まで一致。ここで最初の感嘆符つきのことばとなったのである。

 今回の写真は、家と器台を意識的に別々にして入れた。全形はこのホームページの「主な調査と展示品」説明の方を見て頂きたい。

 この女男岩の家形品が弥生末であったことから、私たちは、古く出土していた鳥取県湯梨浜町藤津の家も同じ時代と考えた。その後、神奈川県厚木市の子ノ神遺跡や、静岡県浜松市の鳥居松遺跡からも、同様な家形品が弥生後期の遺跡から出土した。熊本県山鹿市の方保田(かとうだ)遺跡からも、家形品が出ている。小形品や復元されないものは、他に数点あるが、何にしても大変稀な遺物である。

 しかも女男岩出土品のような、高い筒状の台の上に載り、飾りのような小屋根を大屋根に載せた入母屋造りで、優雅な反りを持った屋根、平を正面にして中央からの入口、このようなプロポーションを持つ造形は、復原されたものでは、今に至るも全国唯一である。

 ひとかけらの土器片から、現代に生き返ったこの家は、幸運の家だろうか。今頃はニュースで無いこの家は、見学者にもほとんど注目されないのだが。

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