(186) 都塚の石棺 - よもやまばなし

(186) 都塚の石棺
2014/11/15

 今年(2014)年8月、奈良県明日香村にある都塚の墳丘が発掘調査され、結果がマスコミに発表された。一辺40mの大形方墳であり、外部は4段以上の石積み段状方墳とのことである。被葬者の話題も賑やかだった。

奈良・都塚の石棺

都塚の石室入り口周辺

都塚上より、北の石舞台を見る右方、
切通しのある山裾に石舞台あり

石舞台近景 多くの見学者がいる。
道路上の人々も石舞台へ行く

石舞台石室入り口より 天井石に登っているのは修学旅行生らしい
写真はすべて、1974年3月撮影

 この古墳のほぼ北方300mにある石舞台古墳は、古くからあまりにも有名であり、奈良の観光スポットの一つ。訪れる人は当然多かったであろうが、今回の都塚調査報道があるより前に、石舞台から都塚まで足を伸ばしていた人が、どれくらいの割りであっただろうか。

 少々のやっかみかもしれないが、私たち倉敷考古館は、倉敷の中では観光地の中心ともいえる所に位置し、建物の外形はいわば倉敷観光スポットの一つである。館に向いてシャッターを切る人の多さはよく知っているが、考古館の中身には全く興味を示さない人の多さも、よく知っている。奈良で石舞台は訪れても、一見周辺の山野と変わらぬように見えた都塚までも訪れる人の割合が、つい気になることでもあった。

 とはいえ、半年ばかり前、全く久しぶりに石舞台を訪れる機会があったが、時間の関係で、都塚は遠目に見て通っただけだった。ここの周辺に40年ばかり昔には、かなり足繁く通っていた者にとっては、今回も出来る事なら都塚の石棺に、ご挨拶したかったが・・・

 40年ばかり昔というのは、私たちが、余裕の無い生活費や休日を削りながら、日本各地を、奈良の辺りまでは日帰りで、古墳時代の石棺を見て回っていた時期だった。今までもこの「よもやまばなし」の中で、石棺石材の示す実態が、古墳時代の各地豪族の動向を示す事に触れてきたが、その研究の資料を集めていた頃である。もちろん都塚を訪れたのも例外ではない。

 後日私たちが、石棺の形態やその石材をまとめた報告書「石棺研究ノート(四)『倉敷考古館研究報告12号』(1976年)には、明日香村坂田の都塚としては、「家形石棺 二上山白石 方か28m、 横穴石室 刳抜6突起」としているだけである。

 しかしこれは奈良盆地の南部で、古墳時代後期の6世紀代には、それ以前、古墳の石棺としては使用していなかった、二上山産の石材(凝灰岩)を利用して、大型の石を刳り抜いて家形の石棺を制作しだしていたことの一連であることを意味していた。

 古墳時代の始まりの頃から、奈良盆地ではもちろん、近畿一帯の王者の棺といえば、まず長い大木を半割りし、それぞれを刳り抜いて合わせた割竹形木棺が普通だった。ところが、やや新しく大阪湾岸に面するあたりに、巨大古墳が集中する頃には、播磨灘に近い地域に多い凝灰岩で、竜山石の名前で代表されている石材で製作された、組合せの大きな、時には蓋に立派な彫刻も施した長持形石棺が、大王の棺として運ばれている。奈良盆地でも、葛城の地域には、この立派な石棺がわざわざ運び込まれているのである。

 古墳時代も後半、古墳の構造が大きく変わる頃、石棺使用は各地の豪族間に広がってくる。そのとき、まさに「地産地消」よろしく、地域の石材開発が進み、地域ごとに石棺が作られるようになる。外形は家形石棺だが、不思議なことに刳抜き作りと、組合せ作りの両者が現れる。地域の豪族層の自己主張のようでもある。

 またこうした石棺変化のきっかけは、九州の石棺が瀬戸内沿岸や大阪湾岸だけでなく、奈良盆地内までも運ばれていることと無縁でない。この頃運ばれた九州の石棺の多くは、家形石棺の祖形になる形で、刳抜き形であった。

 都塚の石棺の主を、蘇我稲目とする説がある。被葬者個人の比定はあまり気の進まないことなどと云いながら、稲目というのは内心と一致。というのは『日本書紀』の中では、欽明天皇の時、彼は大臣であって、二人の娘を天皇の后としている。息子は著名人の蘇我馬子。新たに地元石材で大型の今まで知られていない家形石棺を、自己氏族の棺として採用しても不思議はない。

 ところで稲目は、中央政権の直轄領である「屯倉」を各地に作った関係者とされる。吉備の五郡に白猪屯倉と児島郡に屯倉を置いた時も、彼が命じられたことになっている。特に児島の屯倉に関しては、葛城山田直瑞子が田令(たつかい)に命じられた。

 この「よもやまばなし」(158話)でもとりあげた、吉備の児島にあった八幡大塚古墳では、横穴石室に収められていた棺が、竜山石製でしかも異形の組合家形石棺だったことをのべてきた。葛城氏はかつて河内の巨大古墳を築いた王朝に、次々と一族の娘を后として送り込み、その王朝と一体的な氏族で、王者と同様な竜山石の長持形石棺を使用していた。

 『記紀』の記録がそのまま信じられないことは周知のことながら、時に遺跡・遺物との不思議な符合もある。稲目活躍の欽明の時代は、すでに河内での王朝は断絶,葛城氏も力を失ってから久しいが、葛城を名乗る田令が、吉備の児島に来たことになっている。

 この児島に、かつての長持形石棺の特徴である、竜山石製で、組合形に作られた家形石棺が存在していたのである。一方吉備では地元の豪族が、地元産の浪形石で、刳り抜きの家形石棺を制作しているのである。蘇我氏が二上山の白石で棺を作ったように。石棺にはやはり、氏族の象徴が込められている。

 都塚の調査ニュースに触れ、40年ばかり昔、石棺から古墳時代の実像をと思いながら、日々を送っていた頃の思いを、ついまた記した。書くたびに退化していく思いもする。・・・私達が奈良の都塚に、石棺石材を見に訪れた時の古い写真、その頃の35mmモノクロフイルムは、狭い考古館の資料置き場で、安物のスクラップブックに貼り付けられただけで、山積みとなっている。

 其のフイルム資料をパソコンに取り込んだ写真が、今回上に示した写真である。時は1974年3月と注記されていた。このフイルムでは、都塚の石棺石材が分かるように、棺だけを大きく写しており、外形は草山だけでよく分からない。むしろ近くの石舞台に訪れていた人々のほうが、数多く写されていた。やはり多くの見学者だった。

 当時の石舞台の状況と現状との違いは、近年の石舞台を知る人には、歴然としているだろう。写真では団体旅行で訪れているらしい生徒の多いこと。天井石の上までも登っている。楽しい思い出になったことだろう。その時、彼や彼女たちは、都塚まで訪れていただろうか。私達がこの写真を写した時には、都塚には人影も無かった。

 彼や彼女ももう還暦近い頃と思う。都塚のニュースをどのように受け止めているだろうか。まったく記憶に無いことか、見に行ってないのを悔いているか。

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