(192) 正月早々人骨との対面 - よもやまばなし

(192) 正月早々人骨との対面
2015/2/15

 1955(昭和30)年の正月は人骨掘りで始まった。60年前のこと。浅口郡黒崎町屋守(今の倉敷市玉島黒崎)の中津貝塚周辺のブドウ畑で施肥用の溝を掘っていて人骨らしいものが覗いたとの連絡があった。

1955年正月 中津貝塚出土
縄文時代の女性人骨

縄文後期・中津式土器
考古館に展示

 当時は現在のように各市町村には、文化財担当の職員がいる、などというような時代ではない。近郷での遺跡・遺物発見の場合など、考古館はこうした時の駆け込み寺的なもの、特に土中から現れた相手が人骨などの場合は、嫌でも我々の出番になったようだ。

 ともかく全くの手弁当での緊急調査というような時代、開館以来60年を超えた倉敷考古館の少なくとも前半期は、こうした仕事に追い回される日が多かった。しかも一度こうした事態になったら、盆も、正月も、定休日もあったものではなかった。

 すでにこの「よもやまばなし」でも古参の40話は盆でのこと。158話中にも正月での出来事があった。3話で語った随庵古墳の調査は、幾度も話題(9・83~85・145話)とした安養寺瓦経調査中の突発事態だった。現在のように、事前に計画し一定の時間を設けての調査など、たとえ正月でも「絵に描かれた餅」だった頃のこと。

 ところで、この中津貝塚は、昭和の初めに地元岡山県の郷土史研究者、宗沢節雄と水原岩太郎が発掘した土器を、謄写印刷で報告(水原岩太郎『岡山県浅口郡黒崎村中津貝塚発見土器模様』)している。当時としては、地方でのこうした報告は珍しいものだった。

 その主なものは、箆描きした曲線を境に縄文をつけた面と縄文を付けない面が交互になった、「磨り消し縄文」を特徴とした縄文時代後期初めの土器であった(左の土器写真参照)。この種の土器は近畿、中・四国地方で見られるが、先の報告が学会で認められ、その標識として中津式土器の名が研究者間に知られ、貝塚は標識遺跡として全国的に知られていたのである。

 この時の調査は、正月6日から3~4日ばかりだったか・・・・山陽線金光駅から南東へ2.5キロメートルの距離を歩いたか、あるいは沙美方面行きのバスに乗ったかはよく覚えていないが、そのどちらかであった。

 人骨が覗いていたのは、貝塚の中心からは、少し北へ離れていたが、貝殻の散布も僅かに見えた。骨の周辺を丁寧に掘り進めると、手足を折り曲げてやっと人体が入る大きさの楕円形をした穴の掘り方が見つかる。その中に仰向けに収まった屈葬人骨が現れた。

 写真撮影の後は、測図ということになる。実はこの時大学4年生でありながら、博物館学芸員一年目という、二足の草鞋の身。ともかく屈葬人骨の図を書くのは初めてであった。

 恥ずかしながらその時の図をここに転載。このような絵になってしまうと、何とも可愛らしい女性(縄文時代この種の貝輪を手にはめているのは女性と云う事は、既に常識)。これが、後になって涼松貝塚(93話参照)や里木貝塚の調査で多くの縄文埋葬人骨古墳時代の多くの箱式石棺出土人骨、果てには倉敷市城が端の江戸時代人骨(70話参照)作図の手始めとなる。

 この人骨に関係しては、既に数年も前の25話で、左右の腕に嵌めていた貝輪やピアス風に耳に着装していた鹿の角で作った耳飾り、抜歯の事などに触れた。また同じ付近から少し後に発見された人骨の鹿角製腰飾りのことは26話で、中津貝塚と津雲貝塚で良く似た装身具を出土していることにふれている。これらをぜひ参考にしていただきたい。

 ところで、ごく最近(2015年1月)に中津貝塚を訪ねたのだが、人骨掘りに行った60年前とは付近の環境が様変わりしているのに驚かされた。貝塚付近のブドウ畑は露地栽培であったのが、温室栽培に変わり、範囲も広がっている。しかもその温室がすでに今は、廃墟のようになっているものが多い。周辺に民家も多くなり、農村から住宅地への変化もみられるようである。

 貝塚は、縄文時代の海岸に沿ったごく低い段丘上にあり、かつてはその東に入り込んでいた海面が、江戸時代の前期になって干拓新田、勇崎新開となる。そこは60年前にはほとんどが水田であったのだが、ここにも宅地化の波が押し寄せている。

 人骨を掘りに来たころ、水島では、三菱の三輪トラックを作る工場が、ただ一つの大形工場という時代だった。その後に水島コンビナートができ、倉敷、玉島、児島の三市合併。中津貝塚から東南にみえる沖合の、瀬戸内海の海面の埋め立ても進み、今では玉島地区の沖合遠くまで続く工業基地が遠望できる。

中津貝塚遠景
遺跡地は池の奥中央付近に、白い線状に見える、温室屋根付近の一帯

中津貝塚を北方背後より見る

 貝塚の東に接して、貝塚側の岸で南北300m、対岸方向に120m、そこでの東西幅は400mもの大きな溜池、新池がある。大形河川高梁川から遠い干拓新田の農業用水のために造ったものである。

 ところがこの池には複数のレジャーボートがうかんでいた。海へつながる通船可能な水路を持たない溜池のこと、何とも不思議に感じる光景であった。冬季で海のレジャーに適さない時期の係留であろうか。船は車で海へご出張なのか・・

 さきの話題で一緒に取り上げた津雲貝塚も、中津貝塚と同じ江戸時代前期の干拓新田、西大島新開に面している。どちらも新開ができるまでは入り海の岸辺だった地点であった。貝塚のすぐ傍にみえる低地を浅い海面に見立てれば、縄文時代の海岸に位置した貝塚の環境を容易に思い浮かべることができる遺跡である。

 津雲貝塚では国道2号バイパス工事が笠岡市街地の交通渋滞に対応するため、貝塚の近接地で進められようとしている。中津貝塚でも、水島・玉島道路がさらに西へ向かって延長される計画だと聞く。既設の道路の位置からみれば、貝塚の中心地のすぐ北を通ることになるようである。

 中津貝塚では、前面の新池が、写真にすればまるで海にも思える。レジャーボートが浮かぶのは少々皮肉にも思えたが・・・・現在かろうじてうかがえる、かつて縄文人の住まった瀬戸内海岸の情景が、道路工事の進展で消えて行くのではと心配になる。残される遺跡はその環境と共にあってこそ、本当の遺跡の筈なのだが。

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