(125) タイムトラベルの停車駅(後編) 虬(みずち)の里 - よもやまばなし

(125) タイムトラベルの停車駅(後編) 虬(みずち)の里
2012/5/1

 今回は先回の続き・・・所は倉敷市の東部「上東地区からその北に続く地域」、時は「2000~1800年ばかり昔《の舞台である・・・

足守川改修時発見、弥生末土器片に描かれていた絵(参考文献は前回と同じ)

 左に上げた可愛い絵の主人公は、現代の地域おこしの「ゆるキャラ」にもしたいような動物?だが、いったい何者か?・・・・これも先回、港の情景が描かれた土器片が発見されていた辺りから出土した、弥生時代も終わり頃の、土器片に描かれていたもの。

 ここでちょっと、『日本書紀』が登場、その大略は「仁徳67年、吉備の中国の川島川の川またでは、大虬(みずち)(毒気を吐く、蛇に似た角と足が生えた想像上の動物、竜の子ともいう)がいて、そこを往来する人は、その毒に触れて多く死んだ。そこで笠臣の祖の県守が、ひょうたんを水に投げ込み、宣言する。 ・・・このひょうたんをよく沈めるなら許すが、沈められないようなら、お前を殺す・・・

 虬は鹿になってひょうたんを沈めようとするが沈まない。県守は水に入って虬をずたずたに切り、川の淵に潜む虬一族を全て退治した。そのため川の水が血にかわった・・・

 ここにこの話を持ち出すと、仁徳天皇の時代なら古墳時代で、時代が違う・・と叱られそうだが、このよもやま話を見ていただいているような方が、記紀に書かれた年代観と、記述の内容がそのまま整合しているなど、思っておいでとは、全く思ってないので・・・

 ただ内容がどれだけ何を反映して、語り継がれてきたのか、少なくとも『日本書紀』の基本資料が集められていた7世紀の頃に、あちこちに存在した話であろう、ということで。実はこれと大変似た話は、同じ仁徳紀の11年に河内国で茨田堤を造る時の話にもある。

 ここでも川に関係し、水流のため堤が出来上がらない時、神のお告げで、人柱に武蔵の国人と河内の国人の二人が選ばれた。武蔵人は泣きながら川に入って死んだが、河内人は・・・川の神がひょうたんを良く沈めるなら従うが、沈めないなら偽りの神だ・・・といってひょうたんを投げ、つむじ風が起きて引き込んでも、沈まなかったので人柱にはならなかったが、堤はできた。という話である。

 こうした話も、人間社会での行動で、ただ神頼みするだけでなく、合理性を強調する話として、基本のストーリーがあり、それぞれの地域の伝承に付加されたものかもしれない。

 ともかく川や海には神がいる、荒れて悪神になることも多い。渦巻く怒涛の水流は、蛇の延長上にいる虬や竜の存在を生んだものだろう。

 先回話題とした上東の港は足守川の河口である。この川はもちろん吉備中の国(備中)にあり、かつてはより西にある高梁川が、総社市の平地の中で分流し、東に流れて足守川と合流していたのである。その海への出口に出来上がった平地が上東の一帯といえる。

 この上東一帯だけでなく、まだ前面に瀬戸内の海があった、倉敷市街地の北の低い山々も含め、高梁川と足守川に囲まれた地域は、まさに「川島《であり、そこを流れる川こそ、川島川と言えよう。『日本書紀』仁徳紀の吉備中の国の舞台である。

 上東のすぐ北の低い山塊は、現在多くの部分は、住宅街となっているが、これが王墓山であり、この宅地造成前に、考古館も加わり調査した遺跡の一つに、以前この65話でも話題とした器台付きの家形土器を出土した女男岩遺跡もある。すでに幾度か触れた楯築神社も、この山塊上にある。

 この山塊の東裾を足守川は南下している。そのあたりの足守川河川改修中での発見が、先回や今回話題の土器片上の絵なのである。この山塊のすぐ西北の辺りが矢部であり、古くその辺りで採集されていたのが、辰年を話題とした120話の中の竜の頭かといわれている土製品である。

楯築神社の神体石 正面観 真ん中に顔

そこ面ここにも渦流文

 実はこうして注目される遺物が出土している中心には、楯築神社の御神体がある。径が1mばかりのやや扁平な自然石の表面いっぱいに、全く奇妙な彫刻が、しかも精緻に彫られている、その彫刻に囲まれた中に顔まである石造品・・・これが御神体である。

 ここに写真で示したが、これはこの資料が国指定文化財となる際、調査のため小さい社から取り出されたときに、写したものである。それまで全く見えなかった裏面にまで、渦巻いた彫刻があった。これこそが虬伝承の出発点ではなかったのか?・・・・

 吉備の国が誕生する頃には、西の国からもたらされた新しい文物によって海神・水神としての竜や虬の存在を意識するようになっていた。しかしその神々は、吉備の港(津)の安全、瀬戸内航行の安全を守るものだったのではないか?

 天空の変化を教え、海の本当の恐ろしさを表現する自然界の神、海で生きるものが、学び身につける手本となる神の姿、それが架空の虬であり、石に刻まれた姿であろう。その神の姿は、守り神として津を見下ろす地にあり、この港の人々の拠り所だったのだろう。

 この辺りではこれも新しい祭り、獣骨に焼き目をつけて卜う卜骨も行われていた。しかしこうした祭りを司った吉備の津の首長が死んだ時、彼と共にあった、石の虬の一つは力を失ってバラバラに壊され、彼の墓を覆った。

 このような時、この地を配下にしようと企み、虬の里の人々を敵に回す者にとっては、やはり虬はもっとも恐ろしい神であったかもしれない。荒れる川や複雑な瀬戸内の海流を知らぬ他国者には、このあたりの海は、命を落とす難所だったようだ。幾百年かの後、大和勢力中心に書かれた『日本書紀』の中では、この地の神は、吉備の恐ろしい悪神に変わったとも思われる。

 最初にあげたかわいらしい姿のものは、土地の神として登場する鹿に変身した虬ともみえる。広い水辺の葦原では、蛇も鹿も共存し、穏やかな神々だったのだろう。仁徳紀の中で、虬が鹿に変身するのは、土器の示す古い伝承が、そこに生き残っているのでは・・・・

 古墳時代が訪れる中で、人間の欲望が強まる中で、同じ人間の中で育てられたはずの神々の姿が、人々に追われ消えていく・・・・

 その僅か前の、今から1800年前の人々と共にあった、おだやかな神々の姿が、そこにあったようだ。

 最初にあげたかわいらしい姿のものは、土地の神として登場する鹿に変身した虬ともみえる。広い水辺の葦原では、蛇も鹿も共存し、穏やかな神々だったのだろう。仁徳紀の中で、虬が鹿に変身するのは、土器の示す古い伝承が、そこに生き残っているのでは・・・・

 古墳時代が訪れる中で、人間の欲望が強まる中で、同じ人間の中で育てられたはずの神々の姿が、人々に追われ消えていく・・・・

 その僅か前の、今から1800年前の人々と共にあった、おだやかな神々の姿が、そこにあったようだ。

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