(167) 二つ並びの埋葬(その1)岡山・千足古墳 - よもやまばなし

(167) 二つ並びの埋葬(その1)岡山・千足古墳
2014/2/1

 2013(平成24)年12月25日付けの山陽新聞に「千足古墳(岡山)に新石室か?竪穴式?並んで築造」という大きな見出しの記事、続いて今年(2014)1月18日付けの同紙に「新埋葬石室施設も九州系か」と一面トップ記事のあったことを、ご記憶の方も多いのでは・・・この「よもやまばなし」を見ていただいている方には「千足古墳・・またか」といわれそうだが、これは考古学を専門にする者には、ちょっとしたニュースだった。

調査中の千足古墳

墳頂部で新たに発見された石室の痕跡

以前から開口していた横穴石室の天井石近くの盗掘口(保護のため土嚢が積まれ、覆い屋もある

墳丘裾近くで発見された多くの埴輪片

2010年頃までの千足古墳墳頂部。現在はこの石柱は取り除かれており、この下周辺で、新石室が発見された。 向こうの山は造山古墳

 ところでその時の新聞紙上に載せられていた写真は、実はここの左上に示した写真と、似たり寄ったりだろう。というのも、現地でその頃、ちょっと筆者が撮らしてもらった写真だからである。・・・「皆さんこれは何のことか分かりますか?」・・・ばらけた石・石・石、僅かに掘られた溝・・溝の中にも何かあるようだが・・という状況だけである

 だいたい新聞紙上で古墳などがニュースになったときには、「このあたりの権力者の墓・豪族の墓・・」などが見出しのもの、しかも内容を見ると、一見して分かりよい埋葬施設などが示され、何か珍しげな遺物が並ぶもの・・・というイメージ・・・今回写真のような状態で、これがかなりの規模の竪穴式?または九州系の横穴石室??いったい何?と言いたいところでは・・・

 しかも一つ古墳の墳頂部に、埋葬主体が二つ並びであることは、今では決して珍しいものではない。当館で半世紀以上も前に調査し、現在では出土遺物が、当館の代表的な展示品ともなっている金蔵山古墳でも、竪穴石室が二つ並びだったのだ(よもやまばなし31参照)。しかし今回は、他ならぬ千足古墳だったからニュースなのである。
千足古墳についてはすでに「よもやまばなし」23と122でも話題にしたが、先々回の165話でも話題にしている。この古墳が、古墳時代中ごろから、九州で始まった横穴式石室墳の形態そのままのもので、九州を除けばここ千足古墳にしかないものであった。

 その上、近畿地方で、すべてが天皇陵に指定されているような巨大古墳の中に入れても、第4位の規模を持つ巨墳・造山古墳と一群の古墳であること。これらが現在の広島県の東半と岡山県全体を含む地域、古代の吉備国にあることが、大和が中心と思われている古墳時代社会の中で、いかに重要な意味を示すものか、説明するまでもないだろう。まさに4~5世紀ごろの吉備国の実力の立証・・・

 千足古墳はこのような特異な古墳であり、構造や規模から見ても、恐らくこの古墳に埋葬された主人公は、横穴石室内の人物だけ。他に小形の簡略な埋葬があっても、それは従的なものくらいと思っていたのは、この古墳の調査に、古くから現在に至るまで関わってきた人々、みんなの偽らぬ見解だったのではなかろうか。

 ところが石室の近くに、大きくはないが石が露出しており、或いは小形の埋葬施設でもあるのか・・・というのも、現在の調査は古墳全面の発掘調査ではなく、石室保存保護のためで、主には石室に漏れてくる雨水の原因調査で・・・出来るだけ墳丘を傷つけない発掘だった。そこで発掘状況は写真のような分かりにくいものといえようが、まずはかなり規模の大きい石室が存在していたことは、予想できるものだった。

 墳頂部は現在よりかなり高く、相当激しい破壊と削平を受けていたようだ。今では墳頂では全く見られない埴輪が、壊された石室らしいところに、かなりな量、落ち込んでいる。かつては墳頂部にも多数の埴輪があったことを示している。

 そうして墳丘内には、規模としてはほぼ同じような、二つの埋葬が並列していたことになる。この二つの石室構造が、まったく同じか、構築用の材質に違いがあるのかは、まだよく分からないが、吉備にとっては全く外来要素の古墳に、少なくとも、複数の者が別個に埋葬されていたのである。

 これを見たとき、頭をよぎったのは、先回話題とした海神の媛と山幸彦の結婚譚・・・もちろんそのルーツの一つとしてではあるが・

 千足古墳の主が、男であったか女であったか、それとも男女二人かもっと多い人数かで、物語のストーリィは大きく違うだろう。だがちょっと『記紀』の神話物語に合わせて、吉備風いわば吉備兄彦・弟彦物語を21世紀の自称語り部に語ってもらおう。

<ここからは全くのおとぎ話>

 吉備国から、はるばる九州を訪れた吉備の弟彦(弟というだけで、彼の本名はわからない)は、吉備豪族の一人だったが、兄たちも多くいつも下積の立場。そこでうわさに聞いていた海のかなたの国、「まがね(鉄)」の宝あふれる国にあこがれ、こっそり西から来た船に乗せてもらい、まず九州に。そこを足場に朝鮮半島へも再々出かける。そのうち彼を「麗しく頼もしい男性」と思う地元豪族の娘と結ばれる。

 吉備の弟彦は朝鮮半島で貴重な鉄材を多数入手。もちろん結ばれた女の親、九州の豪族の援助も大きかった・・・彼は喜び勇んで吉備に帰る。しかしその時九州の豪族の娘は身ごもっていた

 そのころ身ごもった多くの娘は、親元で子を産み、そこで子育てすることも普通であったが、九州の豪族には、思うこともあった。というのも吉備と同様に、大和からも多くの訪問者があったが、その訪れる者たちの強引さに腹を立てていた。

 娘が吉備豪族の男性の子を身ごもっていたことから、娘の親は、当時は大和とも拮抗する勢力の吉備との連合を望み、それは吉備にとっても望むところであった。九州の女性は多くの鉄材や、朝鮮半島の珍しい品々や優れた才能のある供人をつれ、立派な船で吉備へやってきたのである。そのことで吉備の弟彦は、兄たちより力を得たのであった。

 しかし九州の女性にとっては、慣れない地での出産や育児であり、彼女は案外短命だったのでは・・・九州の豪族は異郷で死んだ娘のために、故郷での黄泉の国での生活ができるようにと、故郷そのままの墓を、多くの材料も九州から運ばし自分の配下で、築造したのであろう。それは吉備に対して、自分たちの力のデモンストレーションでもあったはずだ・・・

 のちに夫の弟彦も、その墓に並んで、こちらは吉備の人々によって、九州豪族にも配慮した埋葬法で葬られたのでは・・・二人の間の息子が成人したとき、ふたたび九州から、母の一族の娘が来たのかもしれないが、早く異郷から来た母を亡くした子は、母の里を訪ね、そのまま母の国の住人になったとも思われる・・・『記紀』にまとめられた神話では、息子たちは故郷を離れ東征したことになっていくのだが・・・

 特異な環境の中の、特異な二つ並びの埋葬・・・千足古墳物語はここまで・・・あすの日にも物語は別の展開となるかも!

 こうした物語のルーツとなる様な古墳は多いとは言えないが、ちょっと似た古墳を次回に・・・

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