(193) 命の再生 - よもやまばなし

(193) 命の再生
2015/3/1

 注考古館を見学された多くの方には、左上写真の土器は恐らくあまり記憶にないものだと思う。倉敷市里木貝塚の縄文時代中期土器が、特にケースもなく台上に7~8点、並んで展示されている続きに、ひっそり置かれたこの土器は決して目立つ遺物ではない。

岡山県笠岡市津雲貝塚出土 館展示

縄文時代晩期 甕棺
津雲貝塚を南よりみる
中央人家の建つ全面一帯

津雲貝塚の甕棺、横の屈葬人骨は子供らしい
(1920年の京大考古学報告書より)

 この土器には「縄文時代・深鉢形土器(晩期)・笠岡市津雲貝塚出土」とだけの説明で、口径も高さも約35cmばかり、特に注目される姿でもなく復元部分も多い。だがこの土器には他の多くの土器に比べ、特別の思いが込められた物だった筈なのだ。

 先回の話題は60年も昔、倉敷市中津貝塚での、人骨発掘のことだった。その頃に、続けて出土した中津貝塚の人骨は合計で6体だった。その時にも触れた津雲貝塚(笠岡市西大島)は、中津貝塚から10キロメートルほど西にある。

 この津雲貝塚は、中津貝塚以上に著名貝塚と云える。大正時代にすでに160体もの縄文人骨が発見されているのである。この厖大ともいえる縄文人骨が発見されていた頃は、その骨格から日本人の先祖を、神話的歴史とは別に科学的資料から考えようとする、人類学者の人骨収集の始まりであった。

 京都大学の清野謙次、東京大学の長谷部言人、大阪大学の大串菊太郎という、当時新進の人類学者による人骨探し競争の場が津雲貝塚であった。 その出土人骨研究成果は、骨格から日本人のルーツをさぐる資料としてだけではなく、墓への埋葬方法に階層差が認められない点が、縄文時代社会のあり方を考える資料になり、人骨に共伴した装身具や抜歯の風習から縄文時代の習俗を知るなど、縄文時代研究の基本を提供するものとなった。

 とくに戦後、神話的日本の古代史から脱却した原始・古代史を、確立しようとしたときには、津雲貝塚の資料が重視され、戦後のかなりの期間、教科書にもよく登場していた。こうした経緯のもと、津雲貝塚は1959(昭和34)年に岡山県指定史蹟、続いて1968(昭和43)年には国指定史蹟になっている。

 その後には、教科書の改定で石器時代のことなどが等閑視されだし、津雲貝塚も少々軽視されているかに感じるが、石器時代研究の歴史の中に占める位置に変わりはない。近年、笠岡市は五年計画で、国の補助を受けて遺跡の範囲確認調査に乗り出し、史蹟整備にも取り組もうとしている(2015年1月12日の山陽新聞)。

 笠岡市教育委員会の担当者は、市民に親しまれる史蹟にしたいと意気込んでいる。また国道2号バイパス工事が笠岡市街地の交通渋滞に対応するため、貝塚の近接地で進められようとしている現在、国史蹟の保護保存のために必要な処置であろう。昨2014年には遺跡範囲確認の調査も行われ、西日本では珍しい土偶の頭部発見で話題にもなった。

 考古館展示の深鉢形土器も、こうした長い津雲貝塚の調査研究の中で、古く出土した遺物であった。しかも単に深鉢形というより甕棺というべきものなのである。大正9(1920)年発行の京都大学考古学研究報告第5冊『備中津雲貝塚発掘報告』にも、全く同種の深鉢形品土器が、多数の人骨出土地の一角で出土し(参考に同書より写真引用)、この種のものは、幼児埋葬の容器と認識されてきた。

 現在では約170人にも及ぶとされる津雲貝塚での出土人骨は、数人の人骨研究の学者によって、性別判定がされている。出土人骨の性別判定はかなり困難であり、それぞれに多少の違いはある。また3分の1から半数以上の不明人骨の存在を示している。こうした中で、幼少児人骨に関しての資料が、明示されているのは、出土人骨中の66例についてのみだが、男性23、女性30、幼少10、性別不明3ということである(山田康弘『人骨出土例の検討による縄文時代墓制の基礎的研究』2002年)。少なくとも全体の死亡者の中で、幼少児の死亡者は15%以上である。

 いずれにしても当時の子供の死亡率の高かったことは、言うまでも無いだろう。こうした傾向は近代的な医療が発達するまでは、つい近年までのことであり、現代でも地球上の各地で、多くの子供の死亡率の高さは知られている。

 こうしてみると津雲貝塚で、甕棺らしいものの出土は、特に目立つ多さでなく、甕に入る程度の幼児死亡者全員が、甕に入っているわけではないようだ。甕に入れられて大人たちに混じって埋葬されていた幼児には、親の、或いはその社会での、どのような思いが込められていたのだろうか。

弥生時代後期 壺棺2例と右壺棺中の7か月胎児骨
岡山市庚申山出土

(壺の胴径共に40cm強、骨片最長約7cm)

倉敷市上東遺跡出土

 大きく社会が変わり、人口が急速に増えたと思われる社会になってはどうであろうか。弥生時代の中ごろ、九州の北部では、大人も子供も甕棺に入れて埋葬する風習が広がっている。しかし中四国も近畿地方も成人を埋葬する大形甕棺は使用していない。しかし幼児を入れたと思われる壷棺だけは、多いとはいえないが発見されている。

 ただ土器は口の大きい深鉢形から、胴部は大きいが口が小さい壷にかわってはいるが、口部分を打ち欠いて広くし、あとでそこを他の土器で覆ったものが、普通になっている。考古館にも岡山市庚申山出土の弥生後期の壺棺を展示している。

 この庚申山は足守川の西に位置し、その一帯から南にかけての足守川流域は、当地方の弥生時代での中心的な遺跡集中地でもある。その南端近くの弥生時代の大遺跡でもある倉敷市上東遺跡については、たびたび触れたことだが、ここでも古くに発見されていた壺棺が、地元の学校に保管されてきた。

 この壺棺には、わずかながら骨の残存があった。なかにまるで大人の指の骨を思わすような断片もあった。半世紀以上も昔の話になるが、考古館で借用し当時の九州大学解剖学教室の金関丈夫教授に鑑定をお願いしたら、7か月胎児骨の大きさとのこと、指の骨かと思ったものが、大腿骨であった。

 壺棺は古墳時代になっても、なおしばらくは使用されている。幼少児への思いは時代の変化の中でも、強く続くもの。すべての幼少児に対してではない、身分にかかわるとは思えない。早産で死した子か・・・死した母から生まれた子か・・産声を上げながら、どうしても生き続けられなかった子か・・・女性が作ったとされる当時の土器の中にいれたのは、母体への回帰で、復活の望めぬ 命に対し、再生への強い望みなのか・・・・

 今年(2015年)1月の中頃だったか、心臓移植を待つ6歳以下の幼児の脳死で、両親が同じ思いの人々にその幼児のすべてを、移植することを決断された。万難を排して愛児の生命を望んできた親にとって、その体が分割されることに耐えられた方々の思いを、部外者が述べられることではない。だが現在のわが国では大変少ない英断・・

 縄文人も現代人も同じ人間、心の深層には共通なものが流れるのでは・・・最も大切な命がどこかで再生されることを望む心が・・

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