(100) 相撲と八百長と - よもやまばなし

(100) 相撲と八百長と
2011/3/15

 このタイトルは、昨年(2010)の相撲界賭博事件から続いた問題で、その後ニュージーランドの地震、大学入試問題漏洩事件、国会はねじれや造反などと、大きなニュースの多い現在も、連日とまではいかないまでも、常にニュースの話題となっている。相撲界まだまだ問題は早急には解決しないようだ。相撲ファンなどといえば、本当のファンには申し訳ないことだが、ともかく早く茶の間で相撲が見られる日を、待っている一人ではある。

岡山県瀬戸内市鹿忍・槌ヶ原出土
東京国立博物蔵

兵庫県小野市勝手野6号墳出土
兵庫県立考古博物館蔵

島根県浜田市めんぐろ古墳出土
個人蔵

兵庫県たつの市西宮山古墳出土
京都国立博物館蔵

鳥取県倉吉市野口1号墳出土
倉吉博蔵

 このタイトルは、昨年(2010)の相撲界賭博事件から続いた問題で、その後ニュージーランドの地震、大学入試問題漏洩事件、国会はねじれや造反などと、大きなニュースの多い現在も、連日とまではいかないまでも、常にニュースの話題となっている。相撲界まだまだ問題は早急には解決しないようだ。相撲ファンなどといえば、本当のファンには申し訳ないことだが、ともかく早く茶の間で相撲が見られる日を、待っている一人ではある。

 この問題が発覚した頃、相撲協会の放駒理事長が、改革の決意を述べた発言の中に「奈良時代以来の伝統ある相撲・・・・」という言葉があった。今回の基本問題を除けにして言葉尻を言うのは本意ではないが、理事長さんの奈良時代以来の相撲というのは、随分と遠慮した発言だと感心したのである。かの双葉山が活躍した頃だったら「神代の昔・・・」とでも言っていただろうとおもう。わが国は神代に始まったというのが歴史だったから・・

 ともかく、奈良時代というのは国家的な行事として、相撲が行われた頃からのことであり、相撲的なものは、明らかに古墳時代から形で判明しているのを、ご承知の方は多いであろう。相撲の歴史は古い。

 古墳時代も中ごろが終わる頃、つまり5世紀末というより6世紀になる頃に、埴輪の人物像が作られてくる。そうした中に、裸で堂々とした体躯のふんどし姿が現れる。力士といえよう。ただ埴輪の人物では組み合って相撲をとっている状態での発見例はまだない。

 今回、拙い筆者のスケッチで示した5個の組み合う人形は、高さはせいぜい5~6cm、一握りの土で作られたような単純な人形だが、見る人には相撲をとる二人に見えるだろう。埴輪の力士とほぼ同じ頃から、7世紀までに現れた、古墳出土の装飾須恵器に付けられた焼き物の小像である。

 現在までにわかっている確実なものでは、日本中でも5例ばかりで、ここにスケッチで示したものが全てである。こうした人物や動物の小像で飾られた装飾須恵器は、全国でも出土例は150点に満たない。その中で最も多い人物像の行動は、狩猟を表現している。これとても25例ばかりである。

 ところで相撲という言葉は、和名の「須末比」つまり「すまひ」に当てられたものとのことで、この言葉は「ちからくらべ」のことらしい。わが国で古代の記録といえば、『古事記』『日本書紀』『風土記』などだが、この中にも「力比べ」は出てくる。

 出雲の神に高天原の神が、国譲りを強要する時、互いが力比べをしたという形が、『古事記』では語られ、結果は出雲の神の負けであった。

 『日本書紀』垂仁紀には、天下の力士とされた「たいまのけはや」とこれに並ぶ人とされ、出雲の国からわざわざ呼び寄せられた勇士「のみのすくね」が、蹴り合いで対戦している。この対戦で「けはや」の方は命を落とす。「のみのすくね」は勝ったことで、今も相撲の元祖のように言われているのは、知られるところだろう。しかも彼が同じ『日本書紀』の中で、古墳に飾られた、埴輪人物像作りの元祖だとも語られている。

 播磨国風土記』になると楽しい力比べもある。播磨の神埼郡の地名説話の中で、「おおなむち」と「すくなひこな」の二神・・この二神は共に出雲の神である・・が、「はに(土)を担って遠くに行くのと、糞をせずに遠くに行くのと、どちらがよく行くだろうか」という競技である。結果は大便をしないほうが先に音を上げたが、すぐに土運びの方も、苦しいと土を投げ出してしまったという結末であった。

 先の相撲の小像たちも、決して同じスタイルではない。一番上はまともに組んでいるが、二番目は鼻の高い人物と、低い人物に作り分けられており、低い方は、頭を押さえつけられているようだ。三番目は、なんと両者とも陽物を突出している。しかも両者では、明らかに大小がある。小さい方は決して欠けているのではない。四番目は両者の肩に、荷のような物を載せて押し合っている。五番目では両者の間の一本の棒状のもの、両者の手とも見えなくはないが、むしろ肩で棒を押し合うように見える。

 こうした異なるスタイルは、単なる相撲の手ではない。個々の細かい違いには、それぞれに意味があり、この競技の結末が、大切な自分たちの祖先や集団の歴史を語っているとも思われるのである。こうした土器は全て、墓に供えられるために作られているのである。先の文献の記事が、全て出雲と関わりのあることも注目される。とても八百長などとは縁遠い話であろう。

 ところで一方の『八百長』という言葉、江戸時代にも相撲の八百長が有ったなどとも聞くし、嘘八百とか八百万(やおよろず)の神とか、八百など付く言葉も、結構古いと思っていたら、『国史大辞典』にも手近な百科事典にも、八百長という言葉が無いのに驚いた。恥ずかしながら『広辞苑』で、始めて八百長の言葉は、明治初め頃の八百屋の長兵衛さん由来のことと知った。

 こうなったら一体、江戸時代に八百長があったというのなら、なんと言っていたのだろう。ヤフーの知恵袋へ回答を頼めばいいのか・・・入試問題ではないので相手にもされないだろうか・・・

 考古館のこの「よもやまばなし」100回目の今回、100が何時の間にやら800の問題になり、考古館所蔵品などには直接かかわりの無いことを話題とした。が、かつて『考古館の研究集報20号』(1988年10月)で、装飾須恵器のこうした小像達、もちろん相撲の小像も対象にしていたので、ご容赦願いたい。いま少しこうした小像について、詳しいことをと思われたら、この本を参考にしていただきたい。

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