(64) 此海諸安 - よもやまばなし

(64) 此海諸安
2009/9/15

 「上の四文字を貴方なら何と読み解きますか?」・・・・今流行の漢字クイズではない、れっきとした考古館の展示品である。左上写真の徳利みたいな奇妙な形の焼き物に刻字されていた一部。さてこれの意味するものは何であろう。  

大土井正八幡宮出土 経外容器
全形

大土井正八幡宮出土 経外容器
銘部分

 この「よもやまばなし」も二年が過ぎた。三年目の始まり近くに、周辺ではめったにも無い火事騒ぎがあったために、三年目のうったてが、「火事だ」など考古館らしからぬ話題になってしまったが、このあたりで今後は主に、考古館本来の展示品について、いま少し話題にしていきたい。時には何が飛び込むやら分からないが・・・

 今回話題にする遺物も、開館以来の展示品なのである。

 ところで、この資料が発見されたのは明治11(1878)年、現在では瀬戸内市邑久町尻海大土井の正八幡宮境内で、随身門西方の山尾根からとのこと。その時13歳だったと言う神官の人が、半世紀も後に話したところでは、この焼き物には「コノウミショアン」「ショウトク」2年と書いてあった、とのことだった。

 ところでこの遺物は、その後行方不明となっており、再び研究者の知るところとなったのは、岡山市内で1949年のことであった。その間70年ばかりのあいだには、岡山市内は、1934年の台風による大洪水や、1945年の大空襲で、各所で壊滅的な打撃をうけていたが、 此の貴重な資料は災害をまぬがれていたようだ。ただし再発見時には、出土地不詳の品、人間ならばさしずめ記憶喪失と言うところだったのである。

 しかし幸いな事に、既に故人となって長いが、出土地近くに在住されていた熱心な郷土史家、時実黙水氏が、先の神官の話を記憶されていた事で、出土地をあきらかにされたのである。時実氏は大変綿密で、多くの遺跡を踏査し記録されており、岡山県の多くの研究者は、今もその恩恵をうけている、岡山県での考古学の先達の一人なのである。

 この遺物は奇妙な徳利形をしているが、実は上から下まで筒抜けで、底が無い筒形である。高さ54.6cm,上端は破損しているが、底の径は27cm前後。最大径は34cm前後である。胴部が突帯で四区画に区切られその内の三区画内に、文字が焼成前にへらで彫り込まれていた。最初に示した四文字もその中にあった。

 写真下に示したように、区画の一つには「依此海諸安」に始まり、「承徳二年九月二五日造立 如法経塔」の文字がある。これが決め手となった文字。確かに「コノウミショアン」であり、「ショウトク」二年である。承徳二年といえば1098年、「如法経塔」は平安時代も終わり近くに、この筒状品の中に、仏教経典を収めて埋納されたことを示していた。遺跡は経塚だったのである。

 経塚については、この「よもやまばなし(9)」で説明しているので繰り返さないが、平安時代末の社会変動期の中から生まれた、仏教を基とした習俗であった。先の話では瓦に書かれた経典を埋納した、瓦経塚だったが、今回のものは、紙に書かれた経典を収めた紙本経塚であったため、本体の経典の方は消えていた。

 ここで少々煩雑だが、他の二面の内容をそのまま示そう。(「 」が1画内 、は改行)

 「複結縁諸得、大衆安隠(穏か)長寿、為法界衆生、同平等利益、為令也造立如右、敬白」

 為過去祖父祖、母父母成仏也、現世間自身、夫婦所生男、女平安息災也」

 文面には、大衆も法界も全て平等に利益を願うなど、大変立派な言葉が並び、まるで現代の各政党のマニフェストなみだが、実はこれらは経塚願文の常套句。次の父母や祖先の成仏を願うのも、これまたかなり多い常套句。

 ところが続く「現世間自身、夫婦所生男女平安息災」と云う様な、自分や自分の家族を、そのまま強調する言い方は、此の頃の願文では、あまりお目にかかったことが無いようだ。此れを見ると、弱弱しい貴族や、知識人僧侶の末法などと言う理屈抜きで、地方で実力を蓄えていた次代を担う者達の逞しさを見るような願文である。

 ところで問題の・・・依此海諸安・・これは「海諸安」が人名で、此の経塚造営のスポンサーであり、願いの主は「このアマノモロヤス」ということのようだ。「海氏」は古代以来、尻海に近い牛窓湾などを拠点に、瀬戸内に勢力を張っていた一族の筈。海上を通じ、各地の文化も吸収した豪族、中央の貴族に負けない経塚も作れる力量を示したのであろう。

 考古館のケースにおさまってひっそりとしているが、この経塔、全国的に見ても例の少ない珍しいものなのである。

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