(175) 巨木への思い - よもやまばなし

(175) 巨木への思い
2014/6/1

 「枯野を鹽に焼き 其が余り琴に作り かき弾くや 由良の門の 門中の海(いく)石(り)に 触れ立つ 浸(な)漬(づ)の木の さやさや」

100年余り前の、倉敷川河畔。中央の高い木が小山家の松。松の奥に横に見える屋根棟が、考古館になった倉。手前が、旅館となった小山宅。
(写真は大原孫三郎氏が、家の番頭さんをモデルとして撮影したものの部分。『倉敷今昔写真帳』より)

2014年5月5日、上の写真と似た位置からの写真。やや左よりの高い木が松。その下の屋根棟が考古館。舟にはモデルの花嫁一行。

 この歌は『古事記』『日本書紀』の両書に記されている。枯野と名付けられた船が、廃船となった時、それを焼いて塩を作り、その残木で琴をつくたら、由良のとの岩にさやさやと触れる海草のような音色・・・と云うような意味であろう。この歌が載る両書には、それぞれ次のような説明があった。

 『古事記』では、仁徳記末尾に記されており、枯野を作った木は、朝には木の影が淡路島に届き、夕にはその影は高安山に届く大木とし、造られた船の「枯野」は、朝夕に淡路に通い、寒水を汲み大御水とした。朽ちて後は塩を焼き、焼け残りの木で琴を作ると、その音は7里に響いた、とある。

 『日本書紀』には一代前の応神紀2年に記され、船は伊豆に命じて作らせた、長さ10丈(約30m)からの大船で、枯野と命名。応神紀31年に朽ちて塩を焼き500籠を得た・・・・焼け残りの木で琴を作る。

 『古事記・日本書紀』の両書では内容がかなり大きく違うものが多い。しかし先の海幸・山幸物語を述べた時(よもやまばなし166話)にも記したように、中には両書の内容が大変共通しているものもあり、共通した歌が出てくることもある。ここに示した巨木で造くられた大船の話も、両書の中で記述時期に違いはあっても、歴史的な前後の話と特に関係もなく、よく似た形で語られている。

 こうした話は記紀がまとめられた時期には、すでに多くの人々の間で知られた話だったと思う。たいへんな巨木、地域の者にとっては象徴的な木だったが、その巨木は伐られ、公の船になってしまった。当時こうしたことは各地にあったのだろう。そうしてその地の人々は、巨木が無くなって、そのあたりは「枯野」になった思いだった・・・だがその巨木は、舟として活躍、朽ちて後も貴重な塩を焼く材となり、なお残木は琴になった、その音は大きく響く美しいものだった・・・

 各地の話は一つの歌となり、各地の祭りなどで唄い囃されるものとなった・・・いわば当時の流行歌の一つ・・・『記紀』の両書編集時には、これは単なる民衆の囃子歌として、無視できない社会的現象の逸話だったのだろう。

 先回や先々回に話題としたように、6~7世紀頃と思われる当時としては、琴は神を呼ぶ音曲を奏でるものだったはず・・・人々の心の拠りどころともなっていた巨木が、公の用のために切られてしまった、その思いが、僅かな残木さえ神を呼ぶ琴になった・・・ということで伝えられていた歌を、公の記録は無視できなかったのだろう。

 いつの時代でも、巨木とか、その地で特別の意味を持つ木は、地域住民にとってはご神木であったり、地域象徴の木であったりしているようだ。私の幼い時の記憶でも、当時としては岡山市内でも、交通量の多い大きい道路の四つ辻の一角に、小さい祠とともに巨木といえるような大銀杏の木があった。近隣の友人たちはその木は枝を切っても、祟りがあるといっていた・・・この木は、太平洋戦争の戦禍で失われたはずであるが・・・

 心の拠りどころの木と言うことで、今もしばしば話題となる木は、陸前高田市の「奇跡の一本松」だろう。現在ではこの松の木については、特に語るまでも無く著名なものであろう。2011年3月11日の東北の大津波を被り、7万本もの名所松原の中で、ただ一本緑の姿で立っていたとされた松である。しかし残念ながら3年後の今では枯死し、賛否両論はあったようだが、レプリカ松になって立っている。なおこの松の子孫復活も努力されているようだ。この松の樹齢は170年ばかりだったと聞く。

 ところで今では考古館の隣家となっている旅館の庭だが、かつては共に同一屋敷の庭であったところには、二階建ての考古館の倉より、はるかに背の高い立派な松がある。しかし、年間では、考古館一帯を訪れる百万単位といわれている人々で、この松を、覚えている人がどれだけいるだろうか。こちらはただの倉敷風景の一部。

 しかしこれだけ大きい松の木となると、毎年の手入れは大変で、バケット付の大形作業車が、幾日も道路を占拠しての剪定である。倉敷のボランティアガイドさんが、時に樹齢400年などといっていたが、確証は無い。

 よもやまばなし(89)の「考古館所在地の江戸時代」を参照されたいが、考古館の家主でもあり、かつてこの屋敷の持ち主であった小山家は、江戸時代末には浜田屋として知られていたが、宝永7(1710)年のこの一帯の屋敷切絵図には、浜田屋はまだなく、敷地の主な部分は油屋と貝屋で、この切絵図両家の境辺りが,松の位置に当たる。既に松があったとも思えない。

 前後のことから考えて、この松は、考古館の建物と同様200年くらい前からのものではと思っている。だがすでに100年余り前の、大原孫三郎氏の写真(左上)では、この松は、現在とほぼ同じ大きさ。100年前の倉敷川と、現在の倉敷川と、変わらないといわれながら、実は大きく変わっている姿を、この松は同じ位置から眺めていた事になる。

 この松も、今や倉敷河畔の変わらぬ姿の、一つの大切な象徴・・・もしこの松が無くなったら、いや松だけではない、以前からの自然の姿が、作り物に変わったら、その一帯はまさに「枯野」ならぬ「枯川」なのでは・・・

 春連休の賑わいの日、倉敷川では、100年前には生活の荷を運んだ川舟の代わりに、花嫁姿の麗人や鬼姿の和太鼓演奏家が舟に乗っていた(写真下)。

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