(188) 福井洞窟の井戸掘り - よもやまばなし

(188) 福井洞窟の井戸掘り
2014/12/15

 遺跡の中に遺跡がある・・・先回話題にした福井洞窟でのこと、(187)話に写真で示した洞窟内に祭られている稲荷小社の横に、フェンスに囲まれた深い穴は井戸?・・・半世紀の歳月を経たこの穴は、既に遠い昔の遺跡ではないのか・・・

福井洞窟内の稲荷社本殿と横にある、
深い穴を囲むフェンス。左はその穴

 福井洞窟の発掘調査が1960年から1964年にわたって、1次から3次まで続けられた中で、この穴がここに残る経緯には、多くの努力と思いがあった。

 最古の土器と最新の旧石器が土層を上下にして明らかになったあと、更に下層へと掘り進めると砂岩の落石が多い層になる。落石の堆積を掘り抜くにはかなりの労力を要した。落石を取り除いた地表下150~160センチばかりで、再び安山岩と黒曜石の剥片が出土し、石器時代人の生活の痕跡が窺える。しかし定形的石器が明瞭でない。

 その下層にも落石層があって、これを掘り抜いた地表下200センチあまりで、ここでも石器時代人の生活の証しは窺えるが、定形的な石器が発見できない。地表下2メ―トルにもなると、洞窟内堆積層全体の深さからみれば半分にも達していないが、それ以上に深くまで掘り下げることは第一次調査では困難となり、1960(昭和35)年夏の調査を終了した。

 続く二次調査は、2年半ほどの期間をおいた1963(昭和38)年2月下旬から3月初め。今回はもっと下層まで確かめようと、前回の調査区と平行する位置で発掘区の幅を前回より広く3メートルにして、社殿に向かって左側で社殿から1メートル離した地点をえらんだ。

 細石刃と細石核に土器を伴出する縄文草創期と細石刃・細石核に土器を伴わない旧石器最終末の土層は一次調査とほぼ同様であった。草創期では隆起線文土器の利用や、砂岩製の有孔円板などの新発見資料もあったが、発掘区が広くなったこともあり、地表下1メートルばかりまでで調査日程が終了、埋め戻して三次の調査にゆだねることになった。

 三次調査は翌1964(昭和39)年3月下旬から4月初めだった。二次の発掘区を下層へ掘り進めるのが主眼となる。地表下150~160センチから200センチ以下のこと。これを掘り下げとなると、幅3メートル・奥行き5メートルの発掘区も壁面の傾斜で下層に行く程に狭まくなることは一次の時と同様である。

井戸掘り

遺物出土

出土遺物 (これらは1964年の写真)

 深くなるほどに、掘った土を運び上げる作業用の階段も残したことで、下層へ行く程発掘区はさらに狭い。しかも、落石層に出会うから、さながら井戸掘りのような状況で下へ下への作業、だがほとんど人工遺物は見つからない日々だった

 地表から5メートル余りに達すると、玄武岩質の礫を含みだす。洞窟の前面を流れる谷川が運んできた堆積と思われ、洞窟の底面が近いと感じさせる。ところがそのあたりから、安山岩の人工剥片が出土しだしたのだ。随分深くまで掘ったから年代的にも古いのではないか・・・期待を膨らますのは当然だろう。

 剥片は主に縦長で、大形の両面加工の石器も発見され、井戸掘りの重労働を続けてきた調査参加者一同は興奮の一時を過ごす。そのころまでに知られていた旧石器のなかで類似の事例は思いつかないものだった。地表下5.5メートルのことであった。その少し下で洞窟の底面である岩盤を確認して、井戸掘りはやっと終了した。

 深掘りの井戸は、埋めずにおくようにとの地元の要望で埋め戻しの労力をはぶくことができた。その後、周囲に安全柵が設けられ、50年後の今も発掘の空井戸を上から覗くことができるのである。正に遺跡の中に、20世紀の遺跡を見る思いである。

 二次・三次と続いて調査した発掘区の出土資料も倉敷考古館で初期整理を行ったが、その後に一次調査の資料は倉敷考古館で保管、二次・三次調査資料は岡山理科大学と東北大学の保管となった。

 ところで、福井の調査のころまでの旧石器研究は、2~3万年前ころまでの後期旧石器に集中していたが、そのころからは更に古い前・中期旧石器へも眼を向け出す。大分県丹生遺跡・早水台遺跡、栃木県星野遺跡などの調査が報じられ、旧石器研究の新時代到来かと思われた。しかし、それらの石器なるものが人工品とは認めにくいという見解が主流となる。

 それから15年ほど後の1980年ころから、宮城県で古い旧石器遺跡なるものの調査が相次ぎ、国指定の史蹟となるものまで現れた。出土の石器が東京国立博物館、国立歴史民族博物館で展示までされだし、遺跡の発見地が関東や北海道にまで広がり、前・中期旧石器が日本でも認知されたかにみえだした。これが2000年秋の新聞報道に端を発し『前・中期旧石器遺跡の捏造』であったと判明したことを記憶している人は多いとおもう。

 一人のアマチュアの考古学愛好家が第二の相沢忠洋さん(岩宿遺跡発見者、彼は福井洞窟発掘にも参加していた)を目指して長年にわたる詐術を続け、これを周辺の旧石器研究者が見抜けなかった結果であった。これで宮城県に始まった前・中期旧石器問題は霧散したが、福井洞窟の最下層のような確かな人工品で深い土層からの出土資料などに、古い旧石器の存在を期待する説は残った。

 50年も前の福井洞窟資料の初期的な整理の記憶から、最下層で発見された一点の尖頭器に眼をむけると、長さ7センチばかりで両面に加工があるが、一面は平坦に作られ他の面は中央で盛り上がっている。これと同様な尖頭器は一次調査の土器を伴わない細石器の層の出土品の中に1点あり、前回(187話)の写真にもはいっている。

(左)倉敷市釜島出土
(中)坂出市国府台出土
(右)福井洞窟出土、
土器を伴わぬ細石器と伴出

福井洞窟最下層出土
全て片面は平坦、他面は盛り上がりのある尖頭石器
全てほぼ同縮尺で右端約7cm

 これらとほぼ同じ作りと大きさの尖頭器は、備讃瀬戸の後期旧石器遺跡でも発見されていた。倉敷考古館展示資料のなかにある、坂出市国分台遺跡と倉敷市釜島遺跡のもので、福井のものと一緒に並べた写真をここに示した。

 国分台と釜島の例は正確な共伴の石器は明らかでないが、同時採集の石器は後期旧石器の中では新しいとされているものばかりである。こうした尖頭器から推察すると、福井洞窟最下層は、それほど古いものではなく、後期旧石器時代の後半の中に収まる時期と考えることができそうである。

 国指定史蹟福井洞窟は2011~12(平成23~24)年に史蹟整備のため、深くまで安全に、かつ垂直に掘り下げる設備をして調査が行われた。既に佐世保市教育委員会が速報を出しているが、正式報告を期待している。若いころに多大の労力を費やした遺跡のことであるから、正確な成果がでることを、井戸掘りの日々が、正しい評価の中で生きることを願っている。

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