(132)トリカブト(附子(ぶし)) - よもやまばなし

(132) トリカブト(附子(ぶし))
2012/8/15

 先回の宿題・・・それはかつての林源十郎薬局に保存されていた、江戸時代の薬箪笥の小引き出しに記されていた、生薬名の件だった。左に再度、その薬箪笥部分を載せさせてもらった。この中にドクダミの十薬と共に、トリカブトの「附子(付子)」の名前があったか?なかったか?というようなこと。十薬のほうは先回済み。宿題は附子・・・

林薬局の薬箪笥部分 引き出しの生薬名中、防風・獨活・地黄などは、藤原宮出土木簡に記されていた、生薬名と同じ

 とは言うものの、「倉敷考古館近くの道端に生えているドクダミならまだしも、何で毒薬として名高いトリカブトが考古館と関係あるのか」と叱られそう・・・・古い遺跡からトリカブトが出土した事などあったのか?・・

 大体考古学の中で、毒薬どころか、薬自体があまり問題にされていない。考古学の世界でも薬が問題にされるのは、どうしても文字と関わってのことになる。というのも考古学資料として、何が残っていたら、それがかつてわれわれ人間にとっての薬だったといえるのかが、たいへん難しいことなのだ。

 薬だけでなく医療に関わるものとなれば、鍼灸とか手術用具に関係するものなどが、遺物として残されている場合もあるだろう。しかし薬だけとなると、動・植・鉱いずれにしても、それが食料なのか、特別に薬とされたものなのか、証明するのは極めて困難である。その上有機物が多いので残存するものがほとんどない。

 わが国の考古学の中では、医薬に関することが、問題にされだすのは、都城が造られるようになり、木簡などの発見が多くなって、その木簡上に、医薬関係の文字を見るようになってからと言えよう。

 奈良でも藤原宮跡から発見されている木簡類の中には、8世紀も最初頭に、江戸時代の薬箪笥上で見たと同じ名前も含む、30種ばかりの薬品名が記されており、薬湯の処方までもあった。出土地点は、当時典薬寮のあったあたりと考えられている。左上の写真は、林薬局の薬箪笥引き出しの生薬名だが、この中の「防風・獨活・地黄」などは、藤原宮出土木簡にある生薬名と全く同じである。

 その中に「旡(む)邪(さ)志(し)国薬烏□」と書かれたものもあった。これは「武蔵野国産の薬 烏頭(うず)」ということであろうと認められている。実は奈良時代頃には既に、トリカブトのことを形や、生育期間の差によって、烏頭・附子・天雄と呼んでいたようである。トリカブトの名前自体が、鳥の頭でもあり、黒い外見はカラスの頭であるだろう。

 中国では西暦の紀元前200年近くも前の、前漢時代の墓出土の帛書(布に書かれた記録)に、トリカブトを「烏?(うかい)(喙)」と書いている。烏の嘴ということである。 7世紀から8世紀といえば、中国ではすでに唐代、医薬も発達し、トリカブトをいろいろと区別し「附子・烏頭・天雄」と呼んでいる。

 当時はわが国から度々遣唐使が送られ、中国での様々な知識・文化が、当然医薬に関係しても、中央の宮廷や政権内では、学ぶべき常識となっていたはず。まさにステータスシンボル。藤原宮の医薬関係木簡も、その証明でもあるだろう。

 正倉院の中に多くの薬物が残されているのも有名である。『古事記・日本書紀・風土記』などの中にも、医療関係の記載もある。しかし文字で書かれていなかったら、どのような方法で、古代の医療知識があぶりだせるのか?

 わが国では考古学者が、遠い旧石器時代から、まだ文字資料が十分でない古墳時代まで、呪術のことは考えても、具体的な医薬のことに発言しないのは、その材料が確定し難いからでもある。

 だが文字の有無に関わらず、世界各地では毒矢の存在は古くから知られ、その毒に、しばしばトリカブトが使用されていたことも知られているだろう。   またわが国では、狂言の『ぶす(附子)』なら教科書に載ったこともあり、附子が猛毒トリカブトだということは、狂言が確立する室町時代頃にはすでに常識ともなっていたということだろう。

 言うまでもないことだが、この狂言の原型は鎌倉時代の佛教説話集「沙石集」にあり、そこでは主人の坊主が飴を一人で食べ、子供に毒だと偽っていた事から、留守に子供にみな食べられ、たいせつな瓶まで壊された話であるが、狂言では、砂糖はただの毒でなく附子になっている。すでに附子が毒の代名詞になっていたということ。

 ところがこの附子は毒性ばかりが有名であるが、実は重要な生薬にもなっている。ここに示した奇妙な写真は、倉敷にある現在の漢方薬局、寿元堂さんの好意で、生薬となっている附子を写させていただいた。江戸時代以来使用された、「白河附子」ということであった。

 「毒をもって毒を制す」とはよく聞く言葉であるが、まさに漢方の名医はこの附子を使いこなしたと言うことであろう。いかにしてその毒性を抑え、有効性を利用するかが、名医の匙加減だったのだろう。

 林薬局の薬箪笥にこの「附子」の名の有無を探したのも、こうした事に多少興味があったためでもあった。ただこうした生薬名に注意を向ける事になった原因は、実は今からすでに十数年も前の、出雲(島根県)における、それまでの常識を覆す弥生時代青銅器類の発見であった。

 附子がやっと考古学にたどり着いたのだが、直接には倉敷にかかわることではない。考古学での医薬について、どこまで「状況証拠」が認められるものか、この「よもやまばなし」の暇ひまに、ちょっとたどってみたい。考古学の中の医薬、今も一番気がかりな事であるから・・・

 何はともあれ、問題の林薬局の店先に明治時代のはじめまでは、並べられていたと見られる薬箪笥の中には、附子はなかったのであろう。たとえ漢方薬であっても、薬局の店先の引き出しに、毒薬となるものは、軽々しくは置かれなかったものであろう。

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